見出し画像

ものかきものがたり・9行め:「告白」

物書きになりたい――
そんな、無謀な夢だけを抱えて上京した青年。そして1年足らずでなんの展望も未来もない自分の夢に絶望し、その日暮らしのアルバイトで食いつないでいた青年。
そんな彼が、印刷屋のアルバイトで偶然、出会った作曲家の先生は。

「今日は寿司を食べに行こうか。菅沼くん、刺し身とかは平気かね」
「まずは肴と日本酒だね、今夜は。日本酒の世界も知っておいて損はない、今はねえ……べた甘いだけのいんちきな酒、日本酒と呼べない代物ばかり出回っているが。今から、本物を飲んでみようか」
「ふふふ。きみは、カウンターで寿司を食べるのが初めてかい? よく、通の頼み方なんてハナシがあるがあんなものは気にしなくていい。好きなものを頼むか、あとは大将にお任せでいい」
「そうそう、店を出るときに、よく「おあいそ」というやつがいるが、あれはぼんくらだ。おあいそは、店側が言う通り言葉だからね。客側は…… 大将、お勘定をお願いね」
「ぼんくら? ああ、ふふふ。少し悪い言葉だったね。世間知らず、場違いなやつをくさす言葉だが――盆に暗い、で盆暗だね。盆とは、昔の……ああ、タクシーの中で話そう」
「日本の賭博、丁半博打って時代劇とかで見たことないかい。ふふふ、今でもあるんだけどね。その賭博の場、あれを盆というんだ。丁半、どちらにどれくらい賭かっているか――それを瞬時に見分けるのが盆に明るい、その逆の……ぼんやりしていたり、間違えているのが盆暗といわれているね」
「ふふふ。菅沼くん、物書きになるのなら。そういう言葉の意味、語源もいろいろ知っておかないとね。ぼくも、きみと話すようになってね。例の、彼。彼が作曲したドラゴンなんとかみたいなゲームとかをいろいろ見ているんだ」
「ああいう、ヨーロッパ的な世界を舞台にしてもね。けっきょくは表現するのは、書くのは日本語だろう? 自分の使う言葉、自分の使う武器のことは熟知しておかないとね。僕の作曲も同じだけどね、ふふふ」

作曲家の先生は――
なぜか。東京の下層で沈殿していた、アルバイトその日暮らしの青年に。
都内の屋敷に住む、業界人の先生は。作曲家の先生からすれば野良犬のような青年に、良くしてくれていた。気に入ってくれている、ようだった。
最初は、5月の金曜日の夜。
アルバイトから直帰する青年に、先生は上着と靴を借して、新宿で肉を食べさせ。そして初めて飲むシャンパンを飲ませて。話をし……。
翌週は、別の上着を青年にはおらせた先生は、タクシーで銀座方面、人形町の寿司屋へ。
青年はそこで。生まれて初めての高価な、本物の寿司と刺身を。当時は希少だった本物の日本酒を飲ませてもらい。
帰りのタクシーの中で、日本酒で上機嫌の先生は。

「来週は、レストランに行こうか。イタリアとフランス、どちらがいいかね。きみは」
「……その、俺。どっちがどうとか、わからなくって。フランス料理って、すごく高いってことくらいしか。イタリア料理、ですか。イタリア……ピザとか、スパゲティとかの」
「ふふふ。それだと、和食を白飯だけで語るようなものだよ。店は少ないが、イタリアのレストラン、リストランテ、ぼくは好きだなあ。よし、じゃあ来週はそこにしよう」
「そ、その……すみません、ありがとうございます。……でも、先生、その――」
「うん? ああ、もちろん奢りだし。そこで、前回話したボルドーとブルゴーニュを飲み比べようじゃないか」
「いえ、その……先生、そんな毎週、その。俺なんかと食事を、会っていて……いいんですか? 先生、その。業界の飲み会とか、その……恋人とか、週末ですし」

その、恐縮し、言葉を探すようにして尋ねた青年に、先生は――めずらしく、数秒、沈黙してから。

「ああ、それだったら……気にしなくっていいよ。業界の連中とも、飲むことはあるけど。彼らは、もっと違う店に、ね。あれだよ、女性が横に座るような店に行きたがるからね、ゆっくり飲むことも出来やしない」
「そ、そうなのですか」
「それに、ね。恋人は……。うん、まあ。……いまは、いないんだ。気にしなくっていい。――それより、毎週、きみを連れ出してしまっているが。もしかして、君こそ迷惑だったりしないかい? 君も付き合いとか……」
「迷惑とか、そんな。俺、先生とこうして食べて、お酒のんでお話するの、すっごく楽しくて。いろいろ教えてもらえるのが、嬉しくって。興奮するくらいに」
「それに、その、俺。東京には友人とか、いませんし」
「ふふふ。ぼくが、菅沼くんの友人、第一号だね。……。……きみこそ、彼女とかは――」
「いません。……そんな機会も、そんな気分にも――」
「……。そうか、ふうむ。ふふふ、ということは似た者同士。来週も楽しくやろうじゃないか」

先生は、中野まで青年をタクシーで送り、降ろすと。自分はそのまま車内に、

「きみと飲むと、気分がいいね。ぼくはこのまま、行きつけの店にはしごさせてもらうよ。そのうち、菅沼くんともはしご酒しようじゃないか」
「はい、ぜひ。……先生の行きつけのお店って、どんなところなんですか?」
「……。うん、まあ。そこはまた、そのうちに……一緒に行こうじゃないか。……じゃあ――」
「ありがとうございました、先生」

先週から、何かの約束、儀式のように。
青年は、先生と握手をして――その夜は分かれる。肉体労働やスポーツの痕跡がない、柔らかで少し汗ばんだ先生の手と、野良仕事と日雇いでニワトリの足のようになった青年の固い手で握手をして、分かれる。
そして、翌週。週末にも。

「イタリアの料理、こういうリステランテではね。メヌー、コース料理もいいんだが――いかんせん料理が多くて、お酒を飲むにはね。我々のような、男同士で飲むときはアペリティーボ、食前酒の飲みがちょうどいいね。その日の軽食、アンティパスト好きな肴を頼んで、酒を飲む」
「今日はブルゴーニュの赤からいこうか。バローロは締めにとっておこう。……ああ、その皿は生ハムだ。食べてみたまえ」
「ふふふ。スーパーで売っているハムは、まあ、本来はハムじゃないというか。豚のもも肉を塩で熟成させた、豚の刺し身みたいなものが本来のハムだよ。イタリアのハムもいいが、スペインも、いい」
「酒とハムだけだと、悪酔いするし腹が冷えて美味しく飲めないからね。その煮込みを食べてみたまえ、カポナータ、シチリア風の野菜煮込みだよ」
「来週は、そうそう。前も話したけど――食事の前に菅沼くんの服と、靴を選びに行こうか。ええと、そうそう。『そうび』だね、この世界、東京で大の男が戦うためにはそれなりの武器と鎧がないとね」
「もちろん、そんな高いものじゃない。……ああ、それくらい予算があれば十分。ふふふ、慣れてきたら、だんだん高いそうびにかえていけば、いい。そのあたりもゲームと同じ。ゲームも、よく出来ているねえ」
「すぎやま先生はねえ。東大だから、ぼくはあまり面識がないが……ぼくも、もしオファーがあったらゲームの仕事をやってみようかな。ふふふ。菅沼くん、きみがもしゲームを作るときは、ぼくに声をかけてくれるとうれしいね。友人価格、相場より安くしておくよ?」
「――ああ、そのガラスのボトル、ね。デカンタだよ。以前に話したね、デカンタージュ。ワイン、ぶどう酒。とくにボルドーの赤とかは、ボトルの中で熟成させる。それを、そのままボトルからグラスに注ぐと、おりがグラスに入ることがあるから、まずはそのデカンタに注いで……。それと、ボトルの中で眠っていたぶどう酒を、デカンタの中で、空気と温度で目覚めさせるんだ。そうすると、本来の香りと味わいが、ね」
「ぼくはねえ。ワイン、って呼び方はあまり好きじゃない。英語だと、ワインはかなり……乱暴というか、くくりがね。イタリアのぶどう酒なら、ブランコ、ロッソ。フランスならヴァンブラン、ヴァンルージュ、ってね。日本語なら……赤ぶどう酒、白ぶどう酒って言い方が、ぼくぁ、好きだなあ」
「さっきの肉の煮込みは、トリッパ。牛の臓物、胃袋を煮込んだ……ふふふ、そうそう、イタリアのホルモン煮込みかな。きみ、そういうのも好きかい? ふふふ、じゃあ――今度、ションベン横丁の串焼き屋と洒落込もうか。ああいう飲み屋、ああいう世界も知っておかないとね、物書きなら、ねえ」
「……今夜は飲みすぎた。バローロのあとに、グラッパまでのんだからね」

その夜も、先生は青年をタクシーで送ってくれて。
そして、そういう儀式のようにタクシーの座席で握手をして、別れ――先生は『いきつけ』の店に、二件の店へとタクシーで向かい。
そして、翌週。週末、金曜の夜も。

「まずは、ここでスーツ。背広とシャツ、ベルトを。ここはオーダー仕立てもしているが――まず、最初のそうびは、これでいいと思う。吊るしの背広だが、これをね。菅沼くんの体型を採寸して、その体に合わせて仕立て直してくれるんだ。それだけでも、だいぶ違う。それで値段は仕立ての半額以下だ」
「靴とベルトも、最初はこの店のやつでいい。靴は、もうね。凝りだしたら、時計並みにきりがなくて金もかかるが……まずは、きみのスーツと体型に合わせて。まだ菅沼くんは若いから、このウィングチップのつま先の、これとかエレガントでいいんじゃないかな。ぼくだと、ちょっと派手すぎる」
「ベルトは、安いものでいいから何本も、雰囲気の違うのをもっていたほうがいいね。ずっと同じベルトを使っていると……何番目かの、いつも使う穴のところに段ができる、仕事用ならそれでもいいがスーツのズボンがそれでは……ね、みっともない」
「靴の手入れの仕方は、来週、僕の家で教えるよ。道具も、余分があるからそれをもっていくといい。あと1ヶ月に1回、あるいは雨の日に靴を履いたら――靴磨きのところにいくといい。……? ふふふ、映画とかだと安い仕事のイメージがあるが。プロの靴磨きはねえ。靴の手入れと磨きだけじゃなくて、気分も、ね。ギリシャ神話の英雄みたいに、靴に羽根を生やしてくれるよ。本当さ」

青年は、中野にある紳士服の店で――仕事のときに、何度も前は通っているが……まさかその店内に、自分が客になるとは思いもよらないままに。
そこで、棒立ちに、そして十字架の形に手を広げて寡黙な店主に採寸され。

「……きみは、腕はそんなに太くないが。腰も細いが、背中に肉がついてるからね、そういう仕立てにしないと背中だけ突っ張ったおかしなことになる。ふふふ、大丈夫。きちんと仕立て直せば、広い背中は武器になる、ぼくは細いし、太ってしまったしで。うらやましいよ」
「うん、きみだと。ベルトと、サスペンダーもあったほうがいいかもしれない。サスペンダーとベストはぼくが買ってプレゼントしよう」
「さて、終わりだ。仕上がりは……来月だそうだ。じゃあ、この間と同じ、うん、その麻の上着。それを着て。今日は……焼き肉の気分だな。がっつり、ビールと肉をいこうじゃないか」

「きみ、社会情勢と地理は――うん、そっちもしっかり勉強しておいたほうがいい」
「焼肉屋にはね、日本人の店と、あと……北と南の、それがある。この店は、北だね。ぼくは、北の味付け、焼き方が好きかな。……見分けかた? ふむ、言葉にするとちょっと難しいのと……店の中では話しづらい、帰りの車でそれは教えよう」
「こういう、炭火と網で焼いた肉も良いものだろう? 人間の本能に刺さる、そんな気がするよ」
「そうえば――前回の、宿題のバーはどうだった?」
「ほう、ふふふ。きみは、バーボンが好みかな。あの甘さと、強さ。いいね。ぼくはアイラのモルトも好きでね。ん、イギリスの酒さ、スコッチ……という括りは乱暴にすぎる」
「うん、ぼくの行きつけの店……いつも、君と別れたあとにはしごする、その店でね。よく飲むんだ、モルトを……君とこうやって話していると、なんというか…………その」
「たのしい、から――酒で、ね。少し頭を麻痺させてやるんだ。熱くなってる脳をね、酒で……こう、手懐けるっていうか。そういう酒の飲み方も……」

「この店だと、煙草も吸える。菅沼くんは、煙草はまないんだったか。煙草もね、酒と同じで……物書きの義務教育、だと思う。文章に書くときに、経験のあるなしはもろに出る……と思う」
「ぼくは、煙草はやらないんだけど。喫み方、選び方は教えるよ」
「……えっ? 経験―― ははは。たしかにね。人を殴ったり、殺したりするバイオレンスな作家は……大藪先生とかは、べつに人殺しではないけど……そこはね」
「人殺しとか、撃ち合い、殺し合いは、経験している人間などほぼ皆無だが。酒や煙草は、大半の人間が知っている――そこだと思うよ。嘘がつきやすいかどうか。その嘘を本物らしく魅せる……うん」

そんな――先生との、逢瀬。毎週末の、食事と酒、そして会話。
それが何度も、月をまたいで初夏の頃に。
あの紳士服の店で、青年のスーツが仕上がったころ。

「うん。いいね、じつにい。菅沼くん、いいじゃないか。まだ若いからね、その縞、ペンシル・ストライプがよく似合うよ」
「靴は黒にしておいて正解だ、きみはまだ痩せているからね。スーツの縞と相まって細く、粋にみえる」
「靴の手入れの仕方は、教えたね。そうびが揃ったら、あとは……」

その日、先生は――
二度目の、あの鉄板焼きの店での歓談、酒と食事の後。タクシーの中で。
その日の先生は、いつもより……酒の進みが、ペースが早かった。
先生は自分のポケットに入れた手を、少し迷ったように。何かを出そうとして、そして迷ったように。

「…………。菅沼くん。その、このあと……なにか、あるかね。どこかで飲むかい」
「? はい、まだ電車ありますから。あの四谷の店に、行ってみようかって」
「…………。そうかい。はしごするかい。――……だったら」

先生は。タクシーの後部座席、青年と並んで座ったそこで。
ポケットの中から、迷ったように何も持っていない右手を出して。自分の左手と組み合わせながら。

「……きみと会って。こうするようになって、もう……二ヶ月くらいになるかな」
「はい。ありがとうございます、先生、いつもごちそうに……それに、いろんなことを教えてもらって。俺、すごく勉強になって、楽しくって」
「……俺と、話してかい?」
「はい。先生のおかげで、俺……もうだめだって、あきらめていた物書き、作家になれるよう。がんばれています。おかげで、色んな本を読んだり、ゲームのほうのコンベンションにも行くようになったりしましたし」
「…………。作家、か。菅沼くん、作家に……テレビの脚本なら――その……」

先生は、指の色が変わっているのが見てわかるほどに。固く、強く手を組みながら……言った。

「…………。二軒目、いっしょにいかないか」
「えっ、いいんですか。そういえば……先生と、はしご、二軒めを一緒させていただくの、初めてですね!」
「…………。その。これから……ぼくの行きつけ。……いつも、君と別れたあとに行く、ぼくの行きつけの店でも、いいかな」
「はい! ありがとうございます、先生がじっくり飲むお店って――どんな……」
「…………。もし。その店が嫌だったら――」

先生は。青年が初めて、そんな先生を見るほどに……何かを、迷っていた。なにかに、怯えてすらいるようで……だが。もう、何かをこらえきれなくもなったようで――
先生はタクシーの運転手に、

「運転手くん、ここから……中野じゃなくて、四谷、曙橋のほうにやってくれたまえ」
「――先生の行きつけのお店は、曙橋にあるんですか」
「……うん。……『そういう店』は、新宿の。二丁目御苑の北のあたりに多いんだけど……ぼくは、あの街は好きじゃない。狭すぎるし、せわしないし。その。顔見知りが、ね」

先生が、刃物に触れるようにして言った『そういう店』の意味がわからないままの青年が、それを訪ねようとしたとき。

「もし、その店が嫌だったら。もし、ぼくが嫌だったら。……言ってくれたまえ。……君に、無理強いとかしたくない、もう、ここでいっそ――」
「? そんな、先生が俺に無理強いとか、一度も…… それに、俺は先生なら」
「…………」

先生は。これもめずらしく。饒舌な、飲むと上機嫌で、いろんな会話の話題が拡散するように止まらなくなる先生が……青年の横で黙りこくって、いた。
そしてタクシーは、先生の言葉身近な注文通り、曙橋の駅北、交差点のあたりで停まり、二人を降ろす。

……こっちだよ、と――
言葉短く、先生は青年をつれて深夜も近い繁華街を進み。
その裏手にある、バーの看板がいくつも、洞窟のような裏通りをほの明るく照らすそこを進んで。
『薔薇の仲間 The Rose Family』
という電飾看板が、ペンキの剥げかけたコンクリの壁、古びたドアの上で瞬いている店の前で先生は立ち止まった。

「……ローズファミリー、おしゃれな名前のお店ですね」
「フロストの詩だね、アメリカの。……りんごも梨も、プラムも。バラで……」
「みんな、花がきれいな木ですね。ここが、先生の……?」
「…………。ああ。もし、嫌だったら――先に帰ってくれて構わない。ぼくはそれで怒ったりとかとか、ないから。……君を不愉快にさせたら、ごめん」

そう言って、先生は。
その店のドアを開き……店の客となる。青年がそれに続き、背後でドアを閉めると。
――店内は、意外と明るかった。
店の中の空気には、煙草と、そして何かの香水の匂いが抱き合って、そして――そこに、強い酒、バーボンやスコッチの香り、そして――幾人もの男たち、客の体臭が。それがやはり、甘い香水の匂いと抱き合っていた。

「あらあ、センセ。いらっしゃあい。……あら、そちらの子は、先生のお連れさん?」
「うん。まあ、そうなるかな――一見いちげんじゃないから、いいかな」
「もちろんよぉ。座って。カウンターでも、そっちのボックスでも」

その店は、カウンターのあるバーだった。
バーテーブルの向こうには、青年と同じくらいの背丈の壮年の男が。髪を短く刈り込んだバーのマスターが。目の覚めるような白いカッターシャツ、その襟元を開けて。そして 唇に、明るいグロスを塗ったその口が青年に、先生に笑いかける。

「あら。もしかして。その子」
「……ああ、うん。今夜は、その、ね。二軒目に、ここを――」
「へええ。うれしいじゃないー。カウンターにいらっしゃいよ、ねえ」

先生は、その革靴は……店の奥にある、仄暗いボックス席に向かいかけていたが。マスターの笑みと声にカウンターへと。
そこに。
先生は、青年を―― ?? となっている 戸惑っている青年を座らせ。

「…………。何を、飲むかね」
「え、えっと。バーボン……フォアローゼスを」
「ぼくは、いつものアイラを。チェイサーはペリエ、彼のぶんも」
「ありがとうございます。……その、先生――」

その青年の声に、カウンターの中、マスターの横で氷を砕いていた女性が――
……否。当時流行りの、肩の張った女性用スーツを着ていた小柄な男性、青年より若干年上の若い男が。女装子が、青年を見て「ふうん」と。

「いらっしゃい。へえ、先生がいっつも言ってた、自慢してのろけてたスーちゃんて。ほんとうに居たんだあ、ごめんね、私いっつもフカシだって、からかっちゃって」
「……やめてくれよ、なぎさちゃん。今日は、その静かに飲みたい気分――」

そこに。店に居たほかの客。仕事帰りのスーツ姿、そして。カウンターの奥にいる女装子のような……こちらは、露出の強い、肩の出たワンピース姿の中年男が。

「なによぉ、先生。めっちゃ若くない、その子? いいなあ、いいなあ」
「先生、若い子もいけるんですねえ」
「……ね。きみってさあ。あれ、もしかして」
「先生、私とかに口説かれないと思ったらあ。ふうん、すみにおけないじゃん」
「カラオケ、出してこようか。 カワイイ顔してあの子、って」

この盛り上がり、話題の中心は自分だ、と悟った青年は――そのころになって、ようやく。
その店が、いわゆる『ゲイ・バー』だと。
先生がいつも通っていた、店。
先生が、青年との歓談で舞い上がった頭をクールダウンさせる、二軒目の店。
……そして――
先生が、いつも。青年のことを話題に、酒の肴にしていた、その店。
――つまり、先生は。先生も。

こういうときは、どうしたらいいのか。何を言うべきか。
先生と同じく、黙りこくってしまっていた青年の前に、そして先生の前にも酒のグラスが並ぶ。
先生の手は、そのグラスに触れず……あのタクシーの中のときと同じく、組まれたままで。
店の中で流れていたラジオ、そしてかしましい男たちの声の中で。
先生は小さく。

「……その。嫌じゃ、ないかね。気分……もし。気持ち悪かったら」
「……いえ、驚いちゃって。俺、その。こういう店、初めてで」
「……もし、嫌だったら――」

青年は――
手を。固く組まれていた先生の手に。そのスーツの袖のあたりに、置いて。

「ありがとうございます。先生の、とっておきに……俺を、つれてきてくれて」
「…………。あ、ああ。その……。……! のもう。乾杯しよう」

フォアローゼスと、アイラモルト。二つのウィスキーのグラス、その口の部分を合わせて。
青年は、かすかに震えている先生の持つグラスと、乾杯をした。


いいなと思ったら応援しよう!

菅沼恭司
もしよろしければサポートなどお願いいたします……!頂いたサポートは書けんときの起爆薬、牛丼やおにぎりにさせて頂き、奮起してお仕事を頑張る励みとさせて頂きます……!!