【クソマイシリーズ】気付けない不自由さ
クソマイ(クソマイノリティ)です。
先日とあるレストランでウェイターさんが気を遣ってこう聞いてくれた。
「うちのテーブルだと高すぎますが大丈夫ですか?」
クソマイは車イスで背が低いので外食の時ちょうどいい高さで食べることがほぼない。そう聞いてもらって、ふとその事に気付いた。
そして、過去の経験から自分が自分の不自由さに気付くのが疎いことを思い出した。
クソマイは日常生活で不自由なこと、大変なことは多々ある。小さいことでいえばクイックルワイパーのシートを装着するのも柄が長いし、クソマイにとってはクイックルワイパーは重いので時間がかかるしわりと重労働。装着してからワイパーで床を掃除する頃にはもう疲れている。その時は「はぁ~しんど。」と思うのだが、不自由だなとか大変だなとかいちいち思わない、日常だからだ。
学生時代はまだまだ全然自立出来ていなかったクソマイを友人が不自由そうだなと思うとそれ手伝おうか?と声をかけてくれていた。
その時は目から鱗というか、「確かに!手伝ってもらえると助かるかも」と思った。自分では全然気付いてなかったのだ。
自分の不自由さに気付けると創意工夫のしようもあるので、すごくありがたいと思った。
だが、クソマイは一つ過ちをおかした。それは、気付いてくれた人の好意に気軽に甘えてしまったのだ。
そして、彼女がある日こう言った。
「クソマイちゃんて自分からは(手伝ってて)言わないよね~」
なるほど!!勉強になります、先輩(*`・ω・)ゞ
彼女の立場にたってみたら、その通りだ。彼女が手伝おうかといえばお願いしてくるのに、自分からはお願いしてこない。そりゃ、チクリと言いたくなるわな。クソマイは全然相手の立場でものを考えられていなかった。今思うと未熟だった。申し訳ない。自分のためにも甘えるべきではなかった。
そして、この事を教訓にクソマイなりにルールを設けた。
・自分で気付かない不自由は自分で出来るんだから基本的にお願いしない。(自分で楽にできるよう創意工夫する、気付きには感謝)
・自分でやることで、他の人を待たせたり迷惑をかけることは人に助けを求める。
・時には人を選んで甘える、家族や心の許せる人にはうんと甘える(さすが、クソマイ)
このルールにしてから、クソマイの自立心が養われ、成長したように思える。
今、例にしたのは身体的不自由だが、これは心にも言えるのではないか。
先日、ある人がこう言っていた。「自分に条件つけて、チャレンジを先延ばしにしてチャンスを逃している人が多い。」
ちょうどその時、クソマイはこう考えていた。「脳出血の後遺症がよくなったら、映画制作を始めよう」
勝手に自分に条件をつけて自分を縛りつけて心を不自由にしていた。いつになったら映画が作れるんだろ~とモヤモヤしていたがそのモヤモヤが何か全く気付いてなかった。
思うに結局、条件をつけてる時は単純に自分に自信がないのだ。大義名分のような条件は今すぐ動かない言い訳でしかない。(ダサいぞ、クソマイ!)映画制作の準備をし始めれば後遺症だってよくなっていくかもしれないし、良くならなくたっていくらでも制作する術はあるのだ。
このように自分では気付くことが出来ない不自由さって結構あるものだなと思う。
クソマイはほとんど友達と呼べる人はいないが(それはそれで問題なし)、友達じゃなくても人と関わりながら社会の中で生きていくって大切だなぁ、と切に思う。
そんなことを考えながら今日も高いテーブルで食べづらいながらも美味しい食事を頂く幸せを噛み締めている。