【ネタバレ】シン・エヴァンゲリオン感想
筆者がちょうど中学生のころ、「これ面白いんだ」と、エヴァのシナリオブックを渡された、というわりと珍しいはじまりだった。
もともとナディアを姉の影響で見ていたので、庵野作品を受け容れる下地があったこともあり、TV版、旧劇場版と履修したのち、ちょうどインターネット発展期の二次創作に頭の先まで浸かった。10代はそんな風に過ごした。
新劇場版は世間一般の方と同じように、序で予感し、破で興奮し、Qで叩き落された私だが、先に観た知人が「この年齢で観れてよかった」と感想を漏らしていた。私も集約するとそれに尽きるかもしれない。
「穏やかな気持ちで見れてよかった」とも。
この作品で描こうとしたこと、その方向性については大いに受け入れたい。一冊の本として、これできちんとラベルを貼って保存できるから。
優しさに溢れていた。Qでは、それを感じられるのはカヲル君だけだった。Qではシンジ自身が世界を閉ざしていたという感想記事を見たが、Qのシンジはタイムラグなく破の時のシンジであり、むしろそれを示さなかった周囲が悪い、と言う風に素直に受け取っている。
14年経過していたのが幸いだったと思う。かつての同級生も大人になった。シンジを突き放すように守ったアスカも、14年分の時間が経過したから、
頭をなでてくれる人ができたから。前半は、それに包まれることができた。
それでも、碇シンジを動かすのは、やっぱり、いつだって綾波レイだった。始まりの陽炎も、月下の夜も。きっかけであり、理由であり、導線だった。
14年間は、ミサトさんにも影響していた。母としての自分、加持との関係、それを経て見事に役割を演じきっていた。TV版のときにできなかった事を。よかったね、頑張ったね、と言ってあげたい。
結局のところ、このエヴァンゲリオンというお話を終結させるにあたっては、碇ゲンドウという男を語らずには終われない。
目的はこれまでも「ユイに会う為」と表示されていた。だが、これまでパーソナルな部分については語られてこなかった。それでは、シンジと対話することができない。
S-DATをシンジと同じように外界から遮断するように使い、一人でいることを好み、だけれどピアノに安心を見出す。そして、かけがえのない他人と出会う。そんな男の姿が、その後大切な人を失ったときの世界の崩壊を含めて、弱音とともに始めて描かれた。
これはおそらく、庵野監督自身のことも少なからず投影されているように思える。それを描けるようになったのも、やはり年月のおかげであるような気がしてならない。
ラストシーン。最後になぜアスカと綾波を送り出したか・・・言い換えれば、なぜマリがパートナーになったか、について。
再びの綾波の死を以って、碇シンジが「成長してしまったから」ではないかと考えている。ちなみに、この部分が冒頭「今観れてよかった」にも繋がっている。10代の頃だったら、納得できなかったかもと思う。
2人とも「創られ調整された存在」という前提が明示されたことも大きな理由であるが、シンジにとって2人は幸せにしてあげる対象になった、というころではないか。
TV版や旧劇のエヴァにおいては、閉じられた世界、閉じられた関係、というのがやはり人気の根幹にあったのではないかと考えている。
つまり、ぐっと最少人数に焦点をあてて、その関係と自身の内面を分解していく、その生々しさが刺さってきたのではないかと。
でも、今回はシンジ自身、シンジの世界におけるアスカ・綾波という登場人物ではなく、アスカ、綾波自身を中心として幸せにしてあげたい、と。
アスカには、14年間の間にすでに頭をなでてくれる人ができていた。シンジは、それをそのままにして、14年前にいえなかった事(シンジにとってはつい先日のことであるが)を添えて、送り出してあげる。
綾波については、「シンジに好意を持つ」という因果から解放してあげる、ということが最も重要であったのではないか。
繰り返しになるが、碇シンジにとって、2人が恋い慕う女性ではなく、守り幸せにしてあげる対象になった、というのが、「成長してしまった」シンジの行動の源泉なのではないか、と推察する。
ただ、私自身、全てを消化し切れたわけではない。
心のどこかで
「それでも。14年間も初号機の中にいた綾波を、シンジ自身の手で幸せにすることはできなかったのか」
と考えてしまう程度には、長くこの物語に浸りすぎてしまったのだな、と感じる次第である。
※補足(追記)
もちろん多少のツッコミはしながらだった。
例:加持さん急に主役級の活躍しすぎぃ!(裏で)
例:渚司令ってなぁに!?
例:ゲンドウvsシンジ バキの親子喧嘩かよぉ!
例:みんなその優しさをQでも示してあげて!
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