天空の標 第一話
あらすじ
森に守られたシレア国では先王と妃が相次いで逝去した。王位継承者第一王子カエルムは即位を控え側近のロスと近隣諸国訪問中である。海に面した強国テハイザは陸の資源を欲し、シレアと緊張関係にあった。カエルムは強固な友好条約を目指して外遊の最後にテハイザを訪れる。
しかし止まることなく天体の動きを示すテハイザ国の宝、「天球儀」が訪問とほぼ同時に停止し、隣国の王子は災禍の種だと王との謁見を阻まれる。
一方シレアでは、国で唯一「時間」を知らせる時計台が止まった。そしてさらなる異変が……
一刻も早い帰国が要される。二人はこの危機を乗り切れるのか。自然と人間の定めた秩序を軸に、本格ファンタジー開幕。
序 旅のはじまり
一定不変の標あり。
一は刻まれる時であり、その流れること清き水の如し。
一は星示す方位であり、その確かなこと動かぬ地平線の如し。
されども標は眼に見えず、
触れることすら叶わぬは、
真に在りきと思えども、
誰が言わん、それを現だと。
——『古伝万有譚』より——
第一章 入城 (一)
秋の夜である。
街灯も少ない夜道、糸の如く細い月は、街路を照らすのに十分な明かりにもならない。闇が深まり、人の往来が絶えた時分である。誰もが燭台の炎も消して眠りにつこうという頃だ。
街外れにある宿屋の娘も、翌朝の支度を終えて休もうとしていた。しかし、普段なら虫の音しか聞こえない窓の外で、地を蹴る馬の蹄の音がする。それは次第に大きくなり、近付き、宿の前で止まった。こんな時間に何事かと、娘は警戒心と恐怖を覚えつつ身構える。宿の主人である娘の父は、物の買い足しへ遠出しており、今晩は家に帰らない。大きくなる鼓動の音はまるで室内に響くようで、娘の身体はますます強張っていく。
それでも息を詰め、箒を手に握り締め、じっと戸口の様子を見ていると、自分がつい先程、錠をかけた扉が叩かれた。
「夜分に恐れ入ります。申し訳ありませんが、開けてはいただけないでしょうか」
こつ、こつ、とゆっくり戸を叩く音と同様、扉の向こうの声は丁寧だ。夜盗の類では無いだろうと、そう思うと、緊張で痛みを覚え始めた娘の手がふっと緩まった。胸を撫で下ろし、そうはいっても一応、用心して、鎖をかけたまま戸を半分開けた。
そこに立っていたのは、長身の美丈夫だった。後ろにもう一人、彼と同じくらいの年頃と思われる男性が、馬の手綱を引いて控えている。
「深夜にお騒がせをするのは忍びないのですが……道中の雨でこの街への到着が遅れてしまって、宿をほかに探す余裕もなく。部屋は空いてないでしょうか。あと、馬が二頭いるので、できれば厩も」
田舎者や無骨者の多いここ一帯の宿場町ではほとんど聞かれぬ礼節をわきまえた男性の挨拶と、明らかに高貴なその風格に、娘はしどろもどろになった。
「お部屋はありますが、あいにく一人分の寝台しか無いんです……」
男性は喜ばしそうに目を輝かせた。
「部屋が空いているのならありがたい。お部屋さえ貸していただければ寝台のことは構いません。一人は床で寝ますから」
「ちょっと待て」
「構わんだろう。私が床で寝れば」
「それもまずいですって」
後方の男も見るからに質の良い衣服を身につけており、上流階級であることは間違いない。娘に話しかけている男の従者だろう。しかしまるで、市井の若者を思わせるほど気軽な二人のやりとりは、主従関係に全くそぐわない。その様子に戸惑うが、いつまでも戸口で話すわけにもいかない。娘は二人を中に通した。
「こちらへ。厩も裏にございます。狭い部屋ですが、すぐに追加のお布団を御用意致します……」
***
翌朝、娘が朝餉の支度をしていると、昨晩の二人連れが食堂へ降りてきた。
「おはようございます。ゆうべは助かりました」
爽やかに笑う男性はまだ年若く、二十代半ばといった具合か。明るい朝の光の中で改めて見れば惚れ惚れとするような整った顔立ちの青年である。室内に入り込む朝日に照らされた茶に近い癖のない髪は柔らかで、蘇芳色に光る瞳が思慮深さと意思の強さを感じさせる。連れの方は、青年ほど際立った美男子というわけでは無いが、やや癖のある髪と理知的で温和そうな顔立ちが親しみやすさを覚えさせる。
二人は他愛もない話をしながら食事を終えた。一度部屋に戻り、次には荷物をまとめて出てくると、再び娘に声をかける。
「世話になりました。値段を聞かずに泊まってしまいましたが、厩の分と合わせてこれで足りるでしょうか」
誠意のこもった言葉とととに、娘の手にしゃらりという音を鳴らして小袋が置かれる。その中を見て、娘は目を丸くして慌てた。
「いけません、多すぎます! 寝台も一つで我慢していただいたのにっ」
「それでは、夜中に扉を叩いて貴女を煩わせたお詫びとお受け取りください。若い御令嬢に怖い思いをさせてしまったでしょう」
柔らかに微笑むその表情に娘は一気に顔を赤らめる。
青年は、「それでは」、と頭を下げると、連れの者と共に外へ出た。馬に跨り、街の中心へと駆けていく。
その颯爽とした姿は娘が今まで見たことのない美しさだった。娘は彼が去った方向を見つめて扉の前に突っ立ち、しばし呆然としていたが、泊り客の一人に体当たりされてようやく我に返る。
「ちょっと、何でこんなところにあの方がいるんだい?!」
「え?」
「お嬢ちゃん知らないのかい? あの若くて美男と評判のお方を知らないなんて、あんたまだそんなお年頃なのに!」
まくし立てる泊まり客の婦人に、その旦那も頷く。
娘は先ほどまで自分に話しかけていた声音に恍惚としてしまって、婦人の言葉もあまり頭に入ってこなかった。だが、次の一言で目が覚めた。
「ついこないだ、王が崩御したシレア国の若王子、カエルム様だよ!」
持っていた小袋が娘の手から滑り落ち足を強打して、痛みと困惑の混じった悲鳴が朝の空気の中に木霊した。
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