人が自らの「感情を殺す」とき、その感情は死ぬのだろうか
普段は「殺す」とか「死ぬ」とか、そういった類の言葉はなるべく使わないようにしている。
強い言葉だし、色々な感じ方をする人がいるからだ。
ただ、今回あえて使用してみたいと思うのは、今まで自分が感情を殺してきたと信じていたことで、大切なことに気づけていなかったとわかったから。そして今、大切なことに気づけたからだ。
「あなたはずっと感情を殺してきたんですね」
大学生のとき、部屋で一人、理由もないのに突然涙が止まらなくなることが続く時期があった。これは困ったということで、大学の学生相談室に駆け込み、カウンセリングを受けることになった。
初回、とにかく話がまとまらないままひたすら号泣する私。「ずっと感情を殺してきたんですね」とカウンセラーは言った。
私はハッとしたような、嬉しいような、安心するような、少しだけモヤモヤするような、よく分からない気持ちになった。
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私という一人の人間の中にはいくつもの感情がある。
それはまるで雲のように、それぞれ「楽しい」とか「悲しい」とか、心の中にふわふわ浮かんでいる。
雲なので、感情それ自体に命が宿っているわけではなく、殺すというよりも、消しているという方がイメージしやすかった。例え浮かんできても、消してしまえと思えばすぐに消えてなくなるものだった。
確かに私は心から何かを楽しんだことが少ない気がするし、普段こうしたい、とかもあんまり思わない。でも、ふとした瞬間に一気に何かが崩れて涙が止まらなくなる。
あぁ、私の感情は私が殺したんだ。私の感情は死んでしまった。
そんなことを思った。
カウンセリングは1年くらい続けて、急に涙が出て止まらなくなることもほとんどなくなり、なんとなく大丈夫そうということで終了した。感情を甦らせようとして何かしたとかは特になくて、それまで通りの生活を送った。
感情には命が宿っていた
現在パーソナルコーチングを受けながら、「自分が本当にやりたいこと」について考えている。
そこで前回、とんでもないことに気づいてしまった。
感情は生きていたのだ。
さらに驚くことに、今イメージする感情は、雲みたいなものではなく、2cmくらいの大きさの「私」だった。
「楽しい」と感じて笑っている私
「悲しい」と感じて泣いている私
いろんな「私」がそれぞれ命を持ち、私の心の中で集団生活していた。
やりたいことについて考えるとき、その心の中を覗かなければならない。なぜなら答えは私の心の中にしかないから。
何がしたいかな
どうなりたいかな
問いかけていると、なぜだか耳を塞ぎたくなるような、小さな声が聞こえる。
「…人と関わりたい」
それは
「望み」という私の声だった。
私はギクリとした。
「やめて!!」
と咄嗟に自分の手で「望み」の口を塞ぐ。
「望み」はバタバタと暴れ出す。
流石に可哀想なので手を離してあげると、「望み」は苦しそうにしながらも
「見つけてくれてありがとう」
と言っていた。
「そこにいていいよ」と感情に許可を出す
雲だと思っていた感情は実は生きている私だった。
もしかしたら元々生きていたけど、全て殺して雲にして、それから消していたのかもしれない。
感情を認めることは私にとってとても難しい。
感情が生きていると認めてしまったら、傷つくことも、前に進むことも、やるしかない状況になってしまう。
でも、殺したはずの感情は生きていた。
生きているのに、そこに存在することを否定され、死んでいることにされていた。
そんなの自分だったら辛すぎる。
「ここにいていい」と思えることは私にとって何よりの喜びだ。
「望み」の私も同じなんだろう。
私がそこにいていい、と言ったとき、やっと存在を認められたと喜ぶ「望み」に、次に私がしてあげられることはなんだろう。