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人が自らの「感情を殺す」とき、その感情は死ぬのだろうか

普段は「殺す」とか「死ぬ」とか、そういった類の言葉はなるべく使わないようにしている。

強い言葉だし、色々な感じ方をする人がいるからだ。

ただ、今回あえて使用してみたいと思うのは、今まで自分が感情を殺してきたと信じていたことで、大切なことに気づけていなかったとわかったから。そして今、大切なことに気づけたからだ。

「あなたはずっと感情を殺してきたんですね」


大学生のとき、部屋で一人、理由もないのに突然涙が止まらなくなることが続く時期があった。これは困ったということで、大学の学生相談室に駆け込み、カウンセリングを受けることになった。

初回、とにかく話がまとまらないままひたすら号泣する私。「ずっと感情を殺してきたんですね」とカウンセラーは言った。


私はハッとしたような、嬉しいような、安心するような、少しだけモヤモヤするような、よく分からない気持ちになった。

***


私という一人の人間の中にはいくつもの感情がある。

それはまるで雲のように、それぞれ「楽しい」とか「悲しい」とか、心の中にふわふわ浮かんでいる。

雲なので、感情それ自体に命が宿っているわけではなく、殺すというよりも、消しているという方がイメージしやすかった。例え浮かんできても、消してしまえと思えばすぐに消えてなくなるものだった。

確かに私は心から何かを楽しんだことが少ない気がするし、普段こうしたい、とかもあんまり思わない。でも、ふとした瞬間に一気に何かが崩れて涙が止まらなくなる。

あぁ、私の感情は私が殺したんだ。私の感情は死んでしまった。

そんなことを思った。


カウンセリングは1年くらい続けて、急に涙が出て止まらなくなることもほとんどなくなり、なんとなく大丈夫そうということで終了した。感情を甦らせようとして何かしたとかは特になくて、それまで通りの生活を送った。


感情には命が宿っていた

現在パーソナルコーチングを受けながら、「自分が本当にやりたいこと」について考えている。

そこで前回、とんでもないことに気づいてしまった。


感情は生きていたのだ。

さらに驚くことに、今イメージする感情は、雲みたいなものではなく、2cmくらいの大きさの「私」だった。

「楽しい」と感じて笑っている私

「悲しい」と感じて泣いている私

いろんな「私」がそれぞれ命を持ち、私の心の中で集団生活していた。


やりたいことについて考えるとき、その心の中を覗かなければならない。なぜなら答えは私の心の中にしかないから。

何がしたいかな

どうなりたいかな

問いかけていると、なぜだか耳を塞ぎたくなるような、小さな声が聞こえる。



「…人と関わりたい」


それは
「望み」という私の声だった。


私はギクリとした。

「やめて!!」

と咄嗟に自分の手で「望み」の口を塞ぐ。

「望み」はバタバタと暴れ出す。


流石に可哀想なので手を離してあげると、「望み」は苦しそうにしながらも

「見つけてくれてありがとう」

と言っていた。



「そこにいていいよ」と感情に許可を出す


雲だと思っていた感情は実は生きている私だった。

もしかしたら元々生きていたけど、全て殺して雲にして、それから消していたのかもしれない。

感情を認めることは私にとってとても難しい。

感情が生きていると認めてしまったら、傷つくことも、前に進むことも、やるしかない状況になってしまう。

でも、殺したはずの感情は生きていた。

生きているのに、そこに存在することを否定され、死んでいることにされていた。

そんなの自分だったら辛すぎる。

「ここにいていい」と思えることは私にとって何よりの喜びだ。


「望み」の私も同じなんだろう。

私がそこにいていい、と言ったとき、やっと存在を認められたと喜ぶ「望み」に、次に私がしてあげられることはなんだろう。





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