許すとか傷つくとか
コーチングを受けている影響なのか、
過去の印象的な出来事をふと思い出すことが増えた。
ついさっき、また一つ思い出したので、忘れないうちに残しておこうと思う。
昨年1月、中学時代の同窓会に参加した私は、成人式ぶりに同級生たちと会った。
お酒があまり強くない私が、烏龍茶を飲みながら数人と話していると、酔っ払ったA君が私に話しかけてきた。
A君とは小学校と中学校が同じだったが、特別仲が良かったとかではなく、お互いに「おぉ、久しぶり」くらいの距離感だった。
どんな仕事してるの、みたいな当たり障りのない会話をした後に、その日欠席していたB君の話題になったとき、A君は私に言った。
「いやぁ、小学生の時さぁ、俺あいつのことよく分かってなくてさぁ」
詳細はあんまり書けないのだけど、一言で言ってしまえば
「当時、B君の事情を知らずに、B君に対して傷つけるような言葉をかけてしまったことへの後悔」
を吐き出し始めた。
「俺知らなかったんだよぉ」
そう申し訳なさそうな顔で繰り返すA君に、
「それは知らなかったんだもん、仕方ないよね」
「B君もそれはきっと、ね、うん、大丈夫だと思うよ」
と、私は曖昧な返答をすることしかできなかった。
許すということ
なぜあの場でA君が私にその話をしてくれたのかわからないけど、A君の心の中にずっとB君の出来事があったことは確かだと思う。そしてA君はきっと自分で自分のことを許していない。誰かに許してもらいたかったのかもしれない。
そして私も、同じような思いを抱えている気がする。
「起こしてしまった”悪”を受け止める」ということについて、なんとなくずっと興味がある。
虐待をしてしまう保護者を支援したい
これは大学時代から思っていることで、今も関心がある。
虐待を受けた子どもの支援、というよりも、虐待をした保護者を支えたい。
虐待自体はもちろん良いことではないけれど、
「そうせざるを得ない状況だったよね」
と私だけでも受け止めてあげたい。
お節介だと思うけど、その思いは確かに心にある。
それともう一つ。
無意識に差別してしまっている人が、その事実に気づいたときにショックを受けると思うから、そのときに支えになりたい
これも2年前くらいからなんとなく思っている。
文章にするとなんか変だけど、思いをそのまま書くとこうなる。
ショックなんて受けない人もいるかもしれないけど。
共通するのは多分、許してあげたいんだと思う。
と同時に、自分も許されたいのだと思う。
誰かを傷つけるということは、傷つける側の人間も同時に傷ついている、と聞いたことがある。
交通事故のニュースを見れば、事故を起こしてしまった側は今頃どれほど後悔し、絶望し、自分の家族に対しても申し訳なさを感じ、どれほどの罪悪感に襲われているだろうかと想像して苦しくなってしまうくらいには、私はいわゆる”加害者”に意識が向きやすい。
ただ、「許す」ことは結構大変だ。「許す」という行為の裏側には、たとえ仕方ない状況だったとしても「傷ついた」存在がいるはずだから。
例えば、虐待された子どもからしたら、
「仕方ないよね」
「知らなかったもんね」
なんて話じゃ済まない。
そのことも知っている。私自身傷ついたこともたくさんある。
それでも私は許したい。
そのときはそれ以外の方法を知らなくて、誰かを傷つけてしまった人のこと。
そして、
そしていつかは、自分自身のこと。
その先にきっと今と違う世界があることを、今の自分はなんとなく感じ取っている。
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