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ババア、逝去です。
祖母が死んだ。誕生日を目前に、九十四歳で死んだ。
よく芸能人が死んだとき、神輿を乗せたような浮かれた黒い車が「プヮーーーー!」と発情期の象みたいな音を出して敷地を出ていく出棺のシーンを目にするが、祖母の遺体を乗せた車はマイクロバスだった。一丁前に、発情期の象の声を鳴らしてマイクロバスは走り出し、田舎の壮大な枯山水の景色を切る道路を、火葬場に向けて進む。
火葬場はいやに天井が高い建物で、お坊さんが鳴らす「チーン!」の音がよく響いた。夫の母親が亡くなったときに行った火葬場はそこまで天井が高くなかったから、「火葬場の天井は高くしなければいけない」などのしきたりはないのだろう。
しかし、チーン! がよく響く。いい演出だ。年寄りが多く、炉が乾く暇もない限界集落の火葬場となれば、このくらいの厳かさは常に保っておくべきだろうと感じた。
祖母の姪にあたるおばさんは、ことあるごとに私や妹に「ほら、最後だよ」「おばあちゃん、最後だよ」と声をかけてくれた。たしかにそうだと思った。だから私は、祖母の棺が炉に押し込まれるそのギリギリまで、立ち位置を移動して見続けた。
火葬中は、皆が一同に待合室のようなところに押し込められる。皆がそこで弁当を食べ、故人が骨になるのを待つ。
人が死に、焼かれて骨になる。生命活動を完全に終息させるその営みの一方で、私は自分にあてがわれた弁当をさっぱり平らげ、お茶もごくごく飲み干し、母の弁当も半分食べた。私はたくさん食べるのが好きなのだ。
朝から何も食べていなかった。枯渇した胃袋に、生命のもととなる米や野菜を、その場にいる誰よりもたくさん放り込んだ。いくら食べても足りなくて、口に運ぶものを探してばかりいた。
父がふと、私たちのもとへやってきて、父兄嫁、つまり私から見れば義理のおばさんに話しかけた。
父は三男だが、この日の喪主だ。長男のおじさんはすでに故人、次男のおじさんは都会に行って婿に入っていた。実質、継ぐほどの何もない家業を継いで、なんとか経営をしていたのは父だった。
父が話しかけたのは次男の奥さんなわけで、どんな用件だったかといえば端的に「戒名代を兄弟で折半しよう」という話だ。
次男であるおじさん本人にそれを話さない理由は、くも膜下出血などの後遺症でお金に関する話はもうなかなか、難しいとのことだったからだ。私との何気ない会話は問題ないようだったが、いとこがいうには「もう昔のパパじゃない」らしい。
十年前に祖父が死んだ際、長男であるおじさんが「お袋に何かあったら戒名代は兄弟で割ろう」と言って、そしてその本人は数年前に亡くなってしまった。
父は、別に祖母の戒名代を自分一人で払えないわけではないのだ。ただ、長男のおじさんの言葉を全うしようとした。
「私は、お金のことはわからないから……」
おばさんはそう言った。
おじさんはくも膜下出血などの後遺症で、お金のことはよくわからないらしい。おばさんのご両親も、施設などに入っている。いとこたちはすでに、それぞれ働いて自立している。んで、おばさんもお金のことはよくわからない。じゃあ、誰があんたんちの金を管理しているの?
そう思いながら、私は横でおにぎりを貪った。腹が減っていた。
「お義兄さんが、戒名代は兄弟で出そうって以前取り仕切ってくれて。それがまあ、遺言みたいになってしまったんだけどね」
「とはいえ、払いますって言って、実際に金額言われて払えなかったら悪いから。それに私のところは喪主が全部払うものだし」
父は戒名代のことを言うだけ言ってどこかへ去ったので、母とおばさんは攻防を続ける。要は、「払え」「払いたくない」の攻防だ。
私は横でおにぎりを貪っていた。母は戒名代がいくらなのかはっきり発言すればいいし、おばさんははっきりと「払いたくありません」と言えばいいと思う。
私が両津勘吉だったら「戒名代の話は自分がうまくまとめてやるから、ババアに集まった香典をそっくりそのままくれ」などと、たった今、この瞬間の隙間産業を狙いにいくのだろう。でも、おにぎりを食っていた私はそこまで上手に頭が回らず、ただその攻防を眺めていた。
人が死ぬというのは、こういうことだ。そんなことを思いながらも、私はこの攻防をどうにかできないかと考えていた。でも、咄嗟に出てくる言葉がなかった。ずっと、おにぎりを食べていた。
「Sさん(次男おじさんのこと)がしっかりしてたらね。『仕方ないだろ』って払うと思うんだけどね」
そう、おばさんは言った。
え? じゃあ払えばいいのでは? ねえ、お母さん、戒名代いくらなんだよ? 待って、お父さんどっかに逃げた?
私はひたすらに、そんな心のうちをうまく言語化できないまま、おにぎりとフィナンシェを食った。ただそうやって、時間は過ぎていった。
祖母はすっかり骨になった。父は「普通はもうちょっとたくさん骨が残るのだ」と言った。
私は足元から骨を拾っていくものだと知らず、「ここの骨は拾っていいんですか?」とおそらく骨盤あたりの大きな骨を指差して火葬場の人に訊き、「それは後から」と冷たく言い放たれた。無知は恥だと、久々に感じた。
火葬場の人がブラシで骨をかき集めると、細かい骨の粉が舞う。きっと、私が吸った息の中に、祖母の骨が入り込んでいる。
私は祖父や祖母の妹(私はとよみちゃんと呼んでいた)の火葬にも葬式にも出られなかった。祖母の骨を拾いながら息を吸ったとき、私はそれを後悔した。骨の粒子でもいいから、私の一部にすればよかった。祖父や、とよみちゃんを。
私は少しだけ、大きく息を吸った。それは、この場でさめざめと涙を流して別れを演出するよりも、私にとっては大事なことに思えた。
私はなぜか、祖母の遺骨を持って葬儀場まで運ぶ担当になった。なぜそうなったのか、今でもよくわからない。
私は一つ、ルールを作った。火葬場から葬儀場まで、喋らない。まだ焼かれた温度が残る、人肌の骨を膝に乗せて、私はただ黙ってマイクロバスから外を眺めていた。
子ども時代を過ごした市でも、火葬場や葬儀場は私にとってほとんど馴染みのない地域だ。何分車が走れば葬儀場に到着するのかなんて見当もつかなかった。だからただ、行きと同じく真新しい住宅やビビットな看板が情緒を削ぐ枯山水を眺めた。祖母を焼いた炎の熱をわずかに膝に感じながら。
そんなアンニュイなことを下手にやっていたら、普通に車酔いした。最悪だった。
なんだかんだで葬式を終え、私は家に帰ってきたわけだが、いつまで経っても車酔いは引かず、右肩の凝りと偏頭痛も治らなかった。葬式の前後、親戚のおばちゃんが「おばあちゃんが肩に乗ってんだよ。そういうの、感じやすい子っているんだよね。かくいう私も〜〜〜(略)」と語ってくれた。
新幹線での移動を経て、家に着いてもなお体調の悪さは治ることはなく、オカルト的なことにはさっぱりな私がついに「ババア! 墓に帰ってくれ! 頼む!」と心で懇願したほどだ。
ぎゃーてーぎゃーてー、はーらーぎゃーてー。あの世には皇潤も世田谷食品も夢グループもないので、通販に対する煩悩は捨ててください。あと、帰ってくれ、墓とかに。
そう、唱えた。二日ほど、肩こりも頭痛も治らなかった。きっと、祖母が肩に乗っていたのではなく、普通に疲れが溜まっていたのだと思う。そうだと思いたい。
なんとなく、数日はいつもより多めに、塩分をアジシオで摂取して身を清めた。
私はお通夜のときも、火葬のときも、葬式中も、泣かなかった。最近は、ほとんど祖母に会いになんて行っていなかった。めそめそと涙を流す資格なんて、ないと思った。
それなのに、葬式の最後、父が喪主としての挨拶で「もうすぐ誕生日で、無事に迎えられると思ったんですが」と言った瞬間、なぜか私は中学生くらいの若い娘みたいにぐずぐずと泣いてしまった。妹たちより泣いていた。
祖母との間に存在した彩り深い思い出が走馬灯のように蘇った……なんてことは別になく、相変わらず私の中には、私の体型をディスる祖母、せっかく伸ばした髪を「あら〜めくせ〜(まあ、全然可愛くない。切れやの意)」と毛嫌いする祖母、世間体ばかり気にする祖母、そんな姿ばかり思い浮かぶ。
それでも人が死んでいくのは悲しいのだ。家族とは、そういうものなのだろう。私の家族(結婚する前の)は大方がろくでもないが、何はなくともその死を涙で飾れるくらいには愛を持っている。
祖母が死んで、両親があれこれ漁って遺影用の写真を探しても、笑顔の写真がなかったらしい。
唯一笑顔だったのは、私が息子を家に連れていったとき、息子を抱っこしている写真だ。もう何年も前の写真で、私が撮影したものだった。
私のことを「足が太い」だの、思ったよりもいい学校に行かなかっただの、いつまで経っても結婚しないだの、無邪気にディスってばかりいた祖母が私の構えるスマホに笑顔を向けて、それが遺影になった。
遺影の祖母を見て、思った。いい笑顔だ。私が、撮ったのだ。と。