【子育て】思わず叩きたくなる気持ちを卒業した経過
次男は2歳のころ、自分で頭を床に打ち続けるということがよくあったの。
次男の思い通りにならなかったとき。
次男が感情を処理できないとき。
気持ちはわかるけど、そのカタチはあまりいいカタチではないよ。
私は悲しいよ。
だから抱っこをするとか、
いい感覚が入りそうな空間をつくるとか、
いろいろ試したんだ。
すると今度は私を叩くようになって。
根を上げて療育センターを頼った。
上の子と同じ感覚で対応するとどうもうまくいかないらしいことがわかったから。
子育てって難しい
私は子どもへの関わり方のバリエーションがなかなか広がらなくて。
これがダメならこうしてみよう、の視野が狭かったんだと思う。
そんなとき、療育センターのスタッフさんの我が子への関わり方をジーーっと眺めているだけでも落ち着いた。
次男にクールに接するとか、いちいち反応をしないとか、サッと違う興味に移したりとか。
それもアリなのか。
その方がいいときもあるのか。
親になってからの葛藤
私がまだまだ心のゆとりがなくて、母親としての自信もなくしてたころ、次男は私の感情を揺さぶるのが得意だった。
やってはいけないよって日頃から言っていること、やると悲しくなること、思わず怒りたくなってしまうイタズラなど。
甘えたい気持ちからかもしれないし、
ときにはうまくやれていない自分に罰を与えてほしくてやっているのではないかと思うときもあった。
絶対にそれに振り回されてはダメだ、と思っていて。
カッとなったらトイレに駆け込む。
次男を見ない。
心が落ち着いたら、淡々と過ごそう。
何でもないときにはゆっくりと会話したり、一緒に遊ぶのを楽しんだりしよう。
子どもにはいろんな子どもがいると思う。
親の愛情が必要なのはどの子だって同じだと思うけど、同じカタチを求めているわけではないし、好きな刺激はそれぞれ違う。
私の好きなカタチ、私が欲しかったカタチ、よくある育児のカタチ、いろいろ試したけど、なんだかしっくりこなかったのが次男の子育て。
見た目の天真爛漫さととっつきやすさ、周りに笑いを与えてくれる人柄とは裏腹に、不安定な心と強い衝動、感覚過敏、恐怖心が見え隠れした。
いろんな支援者を頼ったけれど、分かりやすい形で理解してもらえたと思えることがなかった。
その経過で次男は傷つき、空回りしてる。
あまりにも理解してもらえないから、私の感覚がおかしいのかと思ったよね。
でも次男は私を信頼してくれているみたいだから、そこまでズレてないのかなって思ってる。
不安定な感情と行動は私の中にもあって、自分でコントロールしきれなくて厄介。
それとずっと付き合ってきたから、次男の気持ち、何となくわかるよ。
発達特性とか脳のタイプとかの話を聞くと、それに対する対応を自分に当てはめてみるけれど、言葉でいうのは簡単で、実際には根気と継続が必要なのだと思う。
キレイゴトじゃない。
ちょっと横に置いておきたい気持ちを、余裕のあるときにじっくりと感じて、自分ってそうなんだねって理解する。
まずはそこから。
次男に対しても。
いい悪いのジャッジをしないで、ただただ、あなたはそうなんだね、と理解するだけ。
シンプルにその積み重ねで。
親も子どもも自己理解が大切
自己理解というのは「自分を知る」という地道な積み重ねで、とても大切な作業だということを私は大人になってやっとわかった。
目に見える結果や将来への不安に惑わされず、ただただ自分を知ることの意味。
それを大人になって非常に苦労した経験から実感している。
将来への不安を払拭するための努力は、将来も不安しか生まない。
私を大切にするための努力は、きっと生きる力を強くする。
今の時代は自己理解と自己選択で自分の生き方を「選びとる」時代なんだと思う。
周りの価値観や評価に振り回されて生きてきてしまうと、自分を完全に見失ってしまう。
自分を見失っていることにも気づかないと、ただただつらい毎日と理由のわからない不安や焦りで生きるのが苦しくなってしまう。
次男への接し方、夫との違い
次男は今でも人を怒らせようとする傾向にある。
だから周りは言い聞かせる。
夫はガツンと言うことが増えた。
ガツンと言わないとわからないし、伝わらないからだ、と。
それも一理あるのだけど、父への恐怖心だけが募り、恐怖心から逃れるために言う通りに動くという動機では、将来にはつながらない気がする。
やっぱり自分で考えて、決めることを促すしかないのではないかな、と。
いろんな接し方があっていいし、夫の対応を否定する気はないのね。
夫は夫で、やっていく中で感じるものがあると思うから。
夫の望みがカタチになる、それだけだと思う。
夫が次男の発する嫌な感覚から遠ざかりたくて、距離を置く、やめるように強く言うというのだとしたら、今、次男が怖がって父親に近づかないというのは望みがちゃんとカタチになっているわけだもの。
次男と心を通わせたい、という望みができてやっと、行動や言動に変化が起こるんだと思う。
だから表面的なことをアレコレ言っても変わらない。
それがわかるから、私は私のやり方で次男に関わっていく。
ところが、面白いことに次男は夫を必要としているのよね。
音読は夫に聞いてもらいにいくし、トカゲの相談も夫に。
そこからは親の役割分担がハッキリしてるってことかな、と感じたりする。
子どもを見るときは、そうやって多面的に見られると、自分の役割も見えてくるし、私らしさもわかってくるの。
私の中の変化
今は、私が次男に逆上することがなくなった。
次男は逆上するようなことをするのだけど、私の心の持ち方が変わったんだと実感してる。
いちいち取り合わない。
その奥にある次男の気持ちに想いを馳せて、様子を見る。
また子どもに過度な期待をせず、そのままを理解しようと努める…そこを優先したからだと思う。
今までは
何度も言ったのに!!と逆上するときは、何度か言えば言うことを聞けるという期待があったのだと思うし、
さっき話したのに!!と逆上するときは、話せば理解できると期待していたのだと思う。
子どもに感情的になるときは、必ず自分の中にその火種がある。
特に男の子って論理的な思考が強かったりするから、感情では伝わりにくいと感じていて。
どれだけ自分も論理的に考えられるか、という部分とかなり向き合った。
それには「言葉にする」というのがいちばん有効で。
次男の行動に私だって悔しい、つらい、悲しいんだよって感情があふれてたことに気づけたし、
つい期待してしまうスキルは次男にはハードルが高すぎることにも気づけた。
何よりも私自身に突きつけた母親のハードルが、私自身にも高すぎるのだとも自覚できた。
今、しんどいママへ
子どもを叩きたくなるとき、必ず要因はいくつも重なってる。
子どもを叩く=お母さんが悪い
でもないし、
子どもを叩く=子どもが悪いことをしたから必要なこと
でもない。
叩きたくなる事実はそのまま認めて、なぜそうなるのかを理解することを大切にしてほしいって思う。
子どもを叩きたい親はいないと思ってる。
ホントは楽しく過ごしたいの。
想いが結果につながらない理由を理解することが大事じゃないかなって。
子どもの心、親の心、大切にしたいよね。
叩かれることをする子どもが悪いとか叩いちゃう自分が悪いとか、そんな単純なことじゃないもの。
もっと心を見つめて、自分と子どもを理解してほしい。
誰かに話せたらいいのにって思うけど、話す人はちゃんと選んで欲しい。
私だったら…。
お母さんを否定するような話し方をする人に話したら、かえって傷ついちゃう。
キレイゴトを並べる人もつらくなる。
想いが強い人も圧倒されちゃう。
ただただずっと聞いてくれて、時々ふわっと笑ってくれる人がいい。
子育てで苦しくなるのは、心の傷とか理解されなかった悲しさとかママ自身も解消できないモヤモヤを抱えているんじゃないかなって思ったりするの。
私はそうだったし、話を聞いているとそんな人が多かったから。
子育てに悩んでないってことはないけれど、なんかさらりと仕事と両立できてるママは、心が落ち着いているし、自分を責めないし、うまくいかないことに執着してない気がして。
しんどい自分、悲しかった自分を理解して、まずは自分を大切にしてほしいし、大切にされてほしい。
どんな自分だって、いいよね。
みんなと違ってたっていいよ。
好きなものが変わっててもいい。
自分が産んだ子どもなのにうまく関われなくたっていいの。
違うから尊重し合える、助け合える、大切にし合えるから。
想いがあれば、いつかはつながってくるから。
私は10年かかったかな。
最初は子どもとうまく関われなくて、
「特性があるから仕方ない」にはしたくなくて、
途中から自分と向き合う大切さに気づいて、
向き合えるようになったらしんどさが減った。
そしたら夫の協力に心を感じるようになって。
子どもたちとの距離も近づいて。
母親と適度な心の距離を置けるようになって。
いろいろ苦しかったことがつながっていって、
「私、自分のためじゃなくて誰かのために生きてたんだ!」
って気づけたら、もう深く悩まなくなったよ。
まずはできるだけ自分を大切にしよう、幸せにしてあげようって思えることが嬉しい。
時間はかかると思うけど、自分を責めないで、自分だけの時間を作って、自分を大切にしてあげて欲しいな。
ちゃんと子どもと向き合おうとしてるから、期待もするし、うまくいかないって思うんだもの。
その気持ちを自分にも向けてあげて、自分をまずは甘やかして欲しいな。
大丈夫、何とかなるから。
ならないと思うなら、誰かに投げちゃっていいから。
それは無責任じゃない、自分を守るためなんだから。
それくらい自分を大事に、大切にしてね。