【京のブログ】(番外編)「終活とともに、幸せとは何かを思う」
このブログに出会ってくださって、ありがとうございます。
マイペースで書き続けてきましたが、お読みくださった皆さま、スキしてくださった皆さまに、この場をかりてお礼申し上げたいと思います。
私の主観で書いているブログですが、毎回スキしてくださる方もいて、共感してくださる方がいることに、大変励みをいただき、心から感謝しております。ありがとうございます。
きっと、今の時代を生きる若い人たちは、こういった顔も名前も知らないけど、それでも、繋がっていることの安心感みたいなものを、求めているのかもしれないとも思います。
今日は、私の個人的な話をしようと思います。
最近、あらためて考える機会がありました。
「幸せとは何なのか」を。
若い頃はそんなこと、考えたこともありませんでした。未来は明るいと信じて(バブル期だったのもあります)たたひたすら、遊んで、働いて、忙しく日々を過ごし、気づいたら人生の半分が過ぎていました。
決して、楽に生きてきたわけではないけれど、五体満足に生まれ、心が病むこともなく、警察にお世話になることもなく、大きな病気になることもなく、今日まで生きてこられたことは、もしかしたら、奇跡なのかもしれないと、思うようになりました。
全く不本意に、災害や事故などで命を落としてしまう方々だっているのですから。
人によって、きっと幸せの基準は、全く異なることでしょう。
人生の半分を生きてきた私でさえも、幸せとは何かを形にすることができずに、こうして自分に問いかけています。
私は、正直「自分が本当に幸せだったかどうかの答えは、たぶんこの世を去るときに、やっと気がつくのもなのではないか」と思っているところもあります。
ただ、日々の生活のなかでも、どんなに些細なことでも幸せだと感じることで、心が豊かになり、他人にも優しく出来るし、そしてそれが自分に返ってくる、その繰り返しによる人との繋がりが、幸せというものを作り出しているのかもしれないとも思っています。
そして、人生の残りが少なくなってきた、今だからこそ、これからは幸せを他人に提供できるよう、人との繋がりを大事にしなければならないのかもしれないと思っています。
私がなぜ、この永遠のテーマともいえる、幸せについて書こうと思ったのには、理由があります。
それは、ここしばらく忘れていた、茉莉花(以前書いた小説の主人公で実在する人物)のことを思い出したからです。
そのきっかけは、最近勤めた会社で、当時の茉莉花と同じ年頃の20代の女性社員に出会ったことでした。
私に、茉莉花のその後を知るよしはありません。
ただひとつ想像できるのは、私が退職したあとしばらくの間は、茉莉花の天下だったのかもしれませんが、その後はおそらくまた、自分がマウンティングがとれる相手を探し、嫌がらせをして、同じことを繰り返しているだろうと思います。
なぜなら、私が勤務していた数年間、全く行動や態度が変わらなかったからです。
茉莉花は他人を踏み台にすることでしか、自分の存在を保てない、自己肯定感も精神年齢も低い人だと思います。
それでも、きっとあの会社の上司は、茉莉花に注意することなく、何も変わっていないことも想像できます。
そして、最近出会った、その20代の若い女性社員も、恐ろしいくらいに茉莉花に似ており、自分勝手でずる賢い人だったのです。ただ、違うと言えば、勤怠不良モンスターではないことぐらいです。
茉莉花のことを、思い出さずにはいられませんでした。
私が懸念していた、増殖している人種を目の当たりにしてしまったのです。
もしかしたら、また茉莉花のような人に出会うのには意味があり、私の中にも「茉莉花に似たところがあるから気をつけなさい」という警告なのかとも思いました。
しかし、これから終活をはじめようかと思っている私には、茉莉花のように嫌がらせをするほど他人に執着もないし、悪口を言っている暇があるなら、残りの時間を自分を充実させることに集中したいと思うのです。
他人を変えることはできないので、気にしないでいることも可能です。正直、そのほうが自分が楽だからです。
ただ、その事実を書かずにはいられませんでした。私の違った意味での執着かもしれませんが。
大きな意味でとらえれば、茉莉花のような、ある意味かわいそうな若者を作り出しているのは、やはり、社会の仕組みにも問題があるのかもしれない。そう思えてきたのです。
茉莉花にも、茉莉花を育てた親がいて、その親は私とそれほど年の差はないはずです。
しかし、親と言えども、子供は別の人間であり、すべてを把握できるわけでもないのはわかります。学校へ通っている間も、子供はその環境で育っていきます。
茉莉花を否定しているわけではありません。
親も同じような人かも知れないし、毒親だった可能性も十分あります。
しかし、茉莉花のような人に限って、家では良い子を演じている可能性が高いのではないかと私は思っています。
茉莉花は、自分の利益しか考えず、他人を傷つけても平気、面倒な仕事は他人に押し付けて、自分は責任を意地でもとらない、でも、マウンティングはしたいし、承認欲求は強い。都合が悪くなれば、メンタルが弱いふりして、私は悪くないと言う。
そして、自分の承認欲求を満たすために、あからさまに悪口を言い、嫌がらせで他人を傷つけ、手柄を搾取する。
そのはたから見たら、かわいそうにしか見えない行為でしか、自分を満たすことが出来ないし、その愚かさにも気づけない能力の低さや、自分が想像する他人からみた自分と、他人から見た自分の激しい相違に全く気づけない。
そういう茉莉花のような若者を作り出している、何かがあるのかもしれません。
本当に自分をよく見せようとするのなら、
自分の中身をよくすることを考えるべきです。
それは、長い年月をかけて滲み出ていきます。
よく、あの人にはオーラがある、なんて表現することがありますが、実際、その人から何かエネルギーのようなものが発せられているというのも、間違いではないように思うのです。
人の悪口ばかりを言えば、
悪口をいう人相になるのだと思います。
だから、実際に言葉を発していなくても、影で言う悪口が顔や態度にでてしまうのだと思います。
人相学で言えば、口角が下がったり、片方だけ口角が上がるのだそうです。
まさに、
茉莉花は片方の口角が上がっていました。
たとえ人相に現れなかったとしても、何かしらの負の雰囲気は伝わるのではないでしょうか。
それを、オーラという言葉で言い換えたとしても、相違はないのかもしれません。
私は思います。
普段の行動が、
これからの自分を作るのではないかと。
笑顔でいれば、笑顔の人が周りに集まります。
だからこそ、未来の自分に恥じない今の行動を、心がけたいものです。
今の自分は過去の自分が作り出しているとすれば、皆さんは、今、どう感じますか?
過去を生きてきた自分にありがとう、そう思える今の自分でありたいと思いませんか?
過去の自分は変えられないけど、
未来の自分は変えることが出来ます。
だからこそ、今、何かに気づいて行動していきませんか?
以前の小説のブログにも書きましたが、茉莉花に出会ったことは、私の人生の中での衝撃でした。
しかし、そのおかげで私は「私がしなければならない何か」に気づけた気がします。
人生の後半戦、そろそろ終活しようと考えはじめた私にとっては、この言いようのない危機感みたいなものを何か形にしなければと考えました。
もし茉莉花に出会わなければ、このnoteさんで書くことはなかったと思います。
おそらく、もう茉莉花に会うことは二度とないとは思いますが、私に〝書くという行動〟を起こさせてくれたことに感謝しています。
あらためて「私にとっての書くことの意味を再認識すること」を、最近出会った20代の若い女性社員を通して茉莉花を思い出すことで、気付かされたのかもしれません。
私はこうして人は変えられないと言いながら、
心の何処かで、
自らが変わろうとする意識さえあれば、
人は変われると信じています。
だからこそ、茉莉花も茉莉花の人生の中で、たとえ人生の終盤であったとしても、その行動の愚かさに気づく日が来て欲しい、私はそう願っています。
私と縁が切れたあと、本気で茉莉花に注意できる思いやりのある人に出会うことができますように。
茉莉花の幸せを願っています。
私も人生の後半戦、大したことはできないけど、終活とともに思う幸せの形をnoteさんの力をかりて、何かしら表現できたらいいと思っています。
このブログに出会ってくださった皆さんには、お会いしたこともありませんが、この文章という繋がりの中で、何かに気づく一助となれれば幸いです。
これが、
私自身の終活のひとつであり、
幸せなのかもしれません。
長文お付き合いいただきありがとうございます。
今後もよろしくお願いいたします。
以前公開した
茉莉花の小説に対するブログはこちら
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