今日発したそのことばが、あなたの遺言になるかもしれない
「この花、いい匂いだね」
2階の自室から1階のリビングに降りてきた父は、母にそう声をかけた。
実家のリビングにはいつも、母が趣味で買ってくる切り花が、透明な花瓶に生けてある。
「花について今まで自分から一切触れなかったパパが、唯一、芍薬を『いい匂い』って言ったの」
あれから母は、父が亡くなった節目の日に、必ず芍薬を選んで買う。
火葬場の大渋滞
いま日本は「多死社会」なんだって、と、2人になったリビングでテレビを見ながら母が言った。
1人産まれれば2人亡くなる。だから火葬場が混雑しちゃって、火葬まで10日以上待つらしいよ。待っている間の遺体の手入れにお金かかって、大変みたい。
そっかあ、それは大変だね、と、目線は手元のスマホに落としたまま私は答える。
人が亡くなった後の段取りについては、遺族経験者通しなので話が早い。
父の火葬が行われたのは、亡くなってから1週間後。あのときも火葬場は渋滞していた。
葬式までの間、遺体をきれいに保つために15万円ほど課金をした。
葬式のときまでに身体が腐ってしまってはかわいそう、という、親族一致の決断だったが、いざ父の両親にお金を請求すると「そんなにかかるの?!」と声を上げた。ごもっともである。
それが10日以上となると、遺体の手入れにかかるお金もさらに増えるだろう。
人は亡くなってからもこんなにお金がかかるとは、恐ろしい。
どうせなら、お供えしてほしいものを「好き」と言おう
「多死社会」ということは、それまで目を背けがちだった「死」がより身近なものになるのではないだろうか。
その人が発した何気ない一言が、その人の遺言になるかもしれない。
私がいま発したこのことばが、私の遺言になるかもしれない。
そう考えると、受け取ることばの重みがずいぶん変わる。
発信することばの重みは、もっと変わる。
父が「この花、いい匂いだね」と発した花が芍薬だったからまだよかったものの、仮にこれがラフレシアとか、もしくは1株数千円とかする超貴重な花だったら。
間違ってでも、「ゴーヤが好物です」などと言わないようにしよう、と心に誓った本日だった。
命日のたびにゴーヤをお供えされるなんて、ごめんだ。