ツイッター依存だった僕がツイッターをやめて1ヶ月たったので経過報告する

ツイートするのはツイッター禁止に反すると思ってnoteを初めて書く。元より140字には収まらないので都合が良い。

ツイッター依存だった僕

飽き性ゆえに長期的な密着した人間関係が好きではない。その上、長いこと恋人もおらず、ラインを頻繁にするタイプの友達もいない僕にとってツイッターはとても都合が良かった。思いつきでツイートをすれば人の反応が帰ってきて、面白いことを言えばそれだけいいねも増えた。だんだんと遅刻をする度にふざけたツイートをすることが習慣化していき、面白いことがあるとツイートを考えるようになっていた。どこかにいけばツイート、映画を観ればツイート、美味しい食べ物を食べればツイート、ツイッターが僕の生き字引になりつつあった。生憎、メンヘラ気味であったので夜になると救済を求めたツイートまでするようになっていた。どんなツイートにも必ず1つはいいねがつくツイッターを心の拠り所としていたのだ。そのいいねが誰のものか、どういった意図によるものかを考えることはなく、口少ないハートマークに心を安らがせていた。

ツイッターを辞めたきっかけ

実際、1日のうちにツイッターが蝕む時間はそう多くはなかった。おそらく30分〜1時間ほどだったと思う。そのため時間が無駄だからというでツイッターを辞めることを考えたことはほとんどなかった。

ではなぜツイッターをやめたのか、理由は2つだ。

1つ目はツイッターが持つ特性による。ツイッターではフォローしている人のツイートはもちろん、その人がRTしたものもいいねしたものも表示される。これによって受ける恩恵があることも事実で面白いツイートや未知の情報を得られる。その一方で、自分が目にしたくないものも強制的に見てしまう。僕にとってそれは知らん人達が知らん人に怒っている様などである。目に入ったものがどうしても納得いかなければツイートをした。ツイッターでしか発言権のない僕にはそれしか手段がなく、時として自分が怒っている人にもなってしまっていた。そのことにふと気づいたのが1つ目の理由だ。

2つ目は映画「何者」による。怒れる人に自分がなっていることに気づいた時、ちょうど映画「何者」をアマゾンプライムで視聴していた。その中で佐藤健演じる主人公が周囲の人間のツイートを嗤うシーンがあった。友達の留学先のホストファミリーへの感謝のツイートに対し「誰に言ってんの」と言う感じで。その言葉を聞いた時笑ってしまった。主人公に感情移入をしようとしていた僕が主人公に論破されてしまったのだ。これが直接的な理由となった。

一時停止し、ツイッターを辞める宣言を誰に対してかした。悩みがないうちに、しかしなんてこともないようにと心がけてツイートをした。

ツイッターを辞めてからの変化

習慣それも精神的支柱となっていたものであるから辞めてすぐはなかなか辛かった。自分の承認欲求が行き場を失い、さまよっているのを感じた。その結果、インスタのサブ垢を作っていた。喫煙者が禁煙のためにパイポを吸う理屈が分かった瞬間だった。それと同時にラインの使い方が変わった。グループを除いて、友達とラインするのは連絡程度だったが服や映画を共有するようになった。到底、寂しさに勝つことはできずどれほどツイッターに依存していたかが分かった。

自分が知らなくていい情報が入りにくくなったことはそこそこ精神に良い影響を与えたようで様々なことに手を出すようになった。思えば、内容の良し悪しに関わらず、TLを流れるツイートの9割は自分が知らなくていい情報だっただろう。辞めたことで良いデトックスとなった。

初めこそつらかったが、二週間ほど経つとツイッターがない生活に慣れていた。暇な授業中はツイッターではなくインスタを見るようになっていたし、電車の中で暇を感じたらインスタを開いた。タピオカを飲めばインスタに載せ、欲しいものがあればインスタに載せた。夕食後にはとりあえずインスタをして、ベッドの上でインスタで1日を締めた。

あれ、もしかしてインスタ中毒じゃね?

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みかみかみ
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