我が家にピアノがやってきた。
幼少からずっと音楽のある生活をしてきたはずなのに。
敢えて音楽から遠ざかっていたわたしに、今は少し寄り添える。
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3歳から一緒に遊んでいる幼なじみのママが、ピアノの先生だった。
従姉と姉が先に習い始めて、続けてわたしは同じ歳の従妹と一緒に鍵盤を触った。
初めてのピアノの発表会で、従妹と一緒に連弾を演奏した。
ピアノを弾いたことよりも、舞台の照明がまぶしかったことを覚えている。
才能もないのに練習嫌いなわたしは、きっと先生泣かせの生徒だったけれど、
少しずつ弾ける曲が増えてきて、当時祖母が喜ぶ曲を必死に弾いていた。
実家が引っ越したことと部活の忙しさを言い訳に、ピアノ教室に通えなくなった。
いつしか鍵盤から手が離れ、我が家からピアノの音色が消えていた。
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目を持たない娘が生まれて、重度の知的障害を受け入れる過程、
日常生活のなかで、音楽を奏でるという機会は失われていった。
「たくさん良い音楽を聴かせなさいよ」
そう言われるたびに、意固地になって、J-popばかり流していた。
事実、娘は、モーツァルトにもショパンにも反応はなく、
わたしの好きな曲を、わたしが歌うのを聞けば、ご機嫌だった。
かつては自分で線を引いていたデザインも辞め、好きだったアートに囲まれる贅沢は、別世界のものだと割り切った。
もうすっかり、わたしは受け取るだけの人になっていた。
そして歳を重ねるうちに、楽譜も読めなくなるほど、老眼が進んだ。
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「ミカちゃん、僕のピアノを受け継いでくれへん?」
友人ピアニスト西川悟平氏からメッセージが届いた。
ジストニアを患い、鍵盤を前にすると指が痙攣して動かなくなる。
今でこそ「7本指のピアニスト」として活躍中の彼だけれど、10年以上もリハビリに苦しんだ時期、何が彼の精神を保たせてくれたのか。
たぶんそこにはきっと、音楽を愛する気持ちがあった。
かつて大きな講演を前にわたしが怖気づいた時に、誰よりも励ましてくれた。
3000人の聴衆をイメージする写真を送ってくれた彼のやり方は、小心者のわたしには何よりも効果的だった。
20年居住したニューヨークを離れ、今年から活動の拠点を東京に移した彼が声をかけてくれた時に、これは運命だと思った。
「もう一度ピアノに触れてごらん」と、天の声が聞こえた気がした。
素人の手で6階のウォークアップから運び出すにはあまりにも重過ぎて、
一度は諦めかけたけれど、そこにまた天からの助けがやってきた。
ピアノ屋の友人が、隙間時間を見つけて仕事帰りに運んでくださったのだ。
「音楽を愛する仲間が増えることが嬉しいから」
その労力の対価さえ受け取ってくれない彼女もいわゆる苦労人で、
痛みを知っている人は、こんなにも優しいのだと心を洗われる思いだった。
そうして、我が家にピアノがやってきた。
わたしの好きなアートを飾ったコーナーに、わたしの好きなピアノが鎮座した。
嬉しそうに鍵盤を奪い合う子供たちの笑顔、いつまで続くだろう。
やっぱりわたしは、音楽もアートも、大好きなのだ。
指先のボケ防止に、子供に隠れて、そっと鍵盤を叩いてみよう。
大好きだったあの曲を、いつかまた弾けるようになるのかな。
すでにボケが始まっていて、曲名すら思い出せないけれど。