我が子が障害児から障害者へ。このせつなさを、どう表現すれば良いのだろう。
3月のとある日、長い長い1日のことを記録しておこう。
せつなくて、せつなくて、今でも心が折れたままのわたしがいる。
知っている人も多いだろうけれど、わたしの娘はとても重たい障害を持っている。
無眼球症といって、目を持たずに生まれてきた。
顔面と鼻の未形成、口蓋の奇形、心疾患、精神遅滞(いわゆる知的障害)。
その他にも数えきれない障害があって、いわゆる「Multiple Disabilities(重複障害)」とまとめられる。
娘は一人では生きることができないし、今の社会ではきっと、周囲にたくさん迷惑をかける存在かもしれない。
わたしたちは異国の地ニューヨークで、たくさんの歴史を重ねた。
そして今、娘はニューヨーク州郊外のスペシャルスクール(寮付きの支援学校)で過ごしている。
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今から12年前の2009年2月に、娘は大きな大きな手術を受けた。
顔の頭蓋骨をチェーンソーで切り外して、組み立て直して、また顔に戻すという神業のような大手術だった。
このことを著作のなかで記述したのだけれど、ほとんどの読者の方にはイメージができなかったと思う。
そこで検索していたら、こんな動画を見つけた。
娘の手術はこれよりさらに6年前だったけれど、どれほどすごい手術だったのか想像していただけると思う。
もちろんノーマルサイズの顔には程遠いけれど、顔面の内側でおでこから鼻にかけて割れていた部分が修正され、呼吸が改善されたことが何よりの効果だった。
ずっと鶏ガラのように痩せこけていた娘は、そこから一気に成長し出した。
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なかなか歩くことができなかった娘が、12歳になった頃にようやく歩けるようになった。
普通の子供が1歳で出来ることが、干支がひとまわりしてやっと出来るようになったのだ。
典型的なA型であくせくしている私には、人よりずっとのんびりな時間の尺度で子育てを楽しめと神様が戒めているのかもしれない。
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あの大手術から干支がひとまわりして、当時の執刀医から突然連絡があったのが先月のこと。
術後12年経って、患者のカルテを整理していたのかもしれない。
年に何百という大きな手術を担当しているドクターが、アジア人として米国での手術に挑戦した娘のことを忘れていなかったことに、少し感動した。
あの大手術の後、「成長がすっかり落ち着いた頃に、フォローアップの手術が必要になる」と言われていたけれど、時間的にも経済的にも余裕のないわたし達は、漠然と諦めてしまっていた。
視覚のない娘を「より自然に見えるように」してあげる手術は不必要だと世間に批評されてから、わたしは自分の道を貫き通せない人になっていたから。
自身が見えなくても、周囲がどう反応して、それを娘がどう感じるかによって、より生きやすくしてあげたいという親の想いは、いつのまにか氷山のように凍りついてしまっていた。
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手術は2年待ちという多忙なドクターのアポを取るのは大変で、でも幸運なことにキャンセル待ちの末に、フォローアップ健診の予約を取ることができた。
ここからやっと、長い長い1日の話が始まる。
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ニューヨーク、マンハッタンから100マイル(160キロ)北上してアップステートに向かう。
コロナ禍のなか、学校で授業を受けている娘をピックアップすることも大変だったが、ナースと寮母が付き添って引き渡してくれた。
(ちなみに、娘はすでにコロナワクチン接種を受けている。)
雪の残るアップステートから南下して200マイル(320キロ)。
途中、車窓の向こう、マンハッタンの摩天楼を横目に見るのが不思議な気持ち。
家を出てからすでに6時間が経って、ようやくフィラデルフィアの街に到着。
12年前の大手術、その後の義眼治療。。。様々な理由で義眼治療を中断した5年前まで、とにかく通い続けた街。
後から思い返して、フィラデルフィア在住の先輩とか、当時お世話になった眼のドクターとか、たくさん御挨拶すべきところがあったのだけれど。
アポ時間に間に合うように、脇目もふらずにフィラデルフィア子供病院に直行。
コロナ対策のため、どこの病院も訪問者を最低限に制限しているため、付き添いは一人しか入れない(はずだった)。
でも、さすが子供病院だけあって、小さな子供を両親が大事に抱えている姿を無理に制止することはない。
さすがアメリカはそういうところの融通が利く。
(日本に行っても、年老いた両親の面会すらさせてもらえない「決して規律の例外を認めない」スタンスを思い返してそう思った。)
白杖をついてヨロヨロ歩く娘を連れていたら、受付をすんなりと通過することができた。
子供はマスクをしていなくてもお咎めなしだし、検温すらなかった。
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約12年ぶりに会ったドクターは、少しだけ歳を重ねたけれど、相変わらず凛として素敵な紳士だった。
丁寧に、丁寧に、娘の診察をして、頭を抱えた。
「いろんな可能性があるけれど、ここでは手術ができないので、僕の知っているドクターを紹介します」
ハッとした。
娘は、もう子供ではないのだ。
3月11日に18歳の誕生日を迎えて、子供から成人への過渡期に入ってしまった。
アメリカは州によって成人年齢が違うけれど、基本的には18歳が成年と認められる。
もう「子供病院」にはいられない。
娘は、それでもまだ小さくて(ホルモンバランスの異常が原因でもある)、キッズ用の小さなスニーカーを何年も何年も履いている。
幼稚園に入った時に買ってあげたL.L.Beanの赤いバックパック(名前の刺繍入り)を背負っている姿は、小学生くらいにしか見えない。
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健診の詳細と今後の治療方針を言及するのは、また別の機会に委ねるとして。
わたし達は、長い帰路についた。
フィラデルフィアからアップステートまで北上200マイル(320キロ)。
途中ガソリンの補給をした以外は、一度の休憩もないまま一直線だったけれど、座っていることに疲れた娘は、機嫌が悪くなり、何度も泣いていた。
そりゃぁそうだろう。
東京都庁から厳島神社の直線距離が709キロというから、その移動時間ずっと景色を楽しむこともできない娘は、暗闇と振動の中でじっと座っていなければいけないのだ。
途中、ニューアーク空港を通過した時、飛行機とコカコーラのトラックがすれ違った。
いかにもアメリカっぽい光景だけれど、娘はそれも分からない。
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ようやく学校の寮に着いた時、ナースが迎えに来てくれた。
夕飯の時間には遅れてしまったけれど、食事を取っておいてくれたようだ。
ルーティーンに戻った娘は、ほっとした表情を見せて、少しだけ微笑んだ。
この日の移動中、食事はすべて車中でとった。
わたしはサンドイッチを食べながら、娘の口にもスプーンを運んだ。
最初、娘はそれを一切受け付けなかった。
きちんとテーブルとイスについて食事をするのが、彼女のルーティーンだから。
そして、決まった時間に食事をすることも、彼女のルーティーンなのだ。
1日が24時間でまわっていることを知らない娘のために、小さい頃はわたしがすべて彼女のペースに合わせて、寝る時間も食事の時間もめちゃくちゃな1日を過ごしていた。
スペシャルスクールに入って、生活のリズムが整えられて、お腹が空いても決まった時間まで我慢できるようになった。
そんな小さな成長すら感慨深い。
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この日、わたしが抱いた想いを、すべて言葉で伝えるにはまだ心の整理がつかない。
確かなことは、娘が「障害児」から「障害者」になったという事実。
「ガーディアン(成年後見人)」申請手続きを始めているものの、ニューヨーク州で娘の親として何かができる21歳という期限が近づいている。
あと3年、ないのだ。
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娘を学校の寮に見送る時、いつも、せつない。
たまらなく、せつない。
娘が背負った赤いバックパックが、残雪と木陰の向こうに消えていく。
そうして、またわたし達は、マンハッタンへ100マイル(160キロ)。
帰宅した時には、もう時計の針が次の日に限りなく近づいていた。