好きな歌を歌いながら人と共存すること
自分の居場所に違和感を感じ始めて半年ほど。
だからといって、その居場所にいる人たちを憎んでいるわけでもないが
その中のある人のことを考えると胸が詰まるような重さがある。
最初から違和感はあったが、同じことを目指していたので
呑み込んで合わせてしまったのがよくなかったのだろう。
同志だと思われてしまった。
違うと思ったらそう言わなければならない。
と、いまさら強く思う。
人間関係はいくつになっても難しい。
その人も良いところや見習いたいところ、
さすがだと唸らせられる面もたくさんあり、
私は良い点を見つけると口に出して本人に伝えるタイプなので
好意しか抱いていないと思われていたのかもしれない。
勇気を出して反対意見を伝えた後も、
何事もなかったかのように別の「反対派」のことを
困った人だ…と私に言ってきたりする。
暗に私にそういいたいのか、
それとも私の発言を忘れてしまったのか
なかったことにして味方でいてほしいのか、とても混乱する。
あなたと全部同じ意見ではないんだよ、ということを
穏やかに、伝えていきたいとあらためて思う。
あなたを責めているわけでも
否定しているわけでもありません。
でもいま私が歌いたい歌はそれではないのですよ。
あなたがたまに感情的になって人の心を傷つける言動を
私は肯定できないけれど
あなたのすべてがダメだというわけでもない。
助けてもらったこともたくさんあるから。
別のものを見ながら同じことをすると温度差が生まれる。
その温度差を、受け入れられる人になりたいし
受け入れてほしいなと思う。
【今日の中国語】
数日さぼり今日は多めにリスニング。
わからない単語が山ほどあったのでその一部。
蟋蟀xishuai コオロギ
甩shuai 捨てる(彼氏、彼女をー)
得寸进尺decunjinchi 軒を貸して母屋を取られる
这只鹤zhezhihe 一羽の鶴
大海捞针dahailaozhen 大海で針を探す(見つけることが難しい)
コオロギは闘わせたり、お守りにしたりと
中国ではシンボリックな存在なのだけど、
日常会話で出てくることはほとんどなかったように思う。
蟋蟀…カタカナで書くと「シーシュアイ」という音になる。
なかなか良い響きだ。
日本では見ない字「甩」。これもシュアイと読むけど
(コオロギのシュアイとは四声と呼ばれる発音は違う)、
会話で使ったことない。
例文は「あんな良い彼氏を捨てるなんて理解できない」の
捨てるの意味で使われていたが、
捨てるは「ゴミを捨てる」の「扔reng」しか使わないし
恋人と別れるって意味なら「分手fenshou」だしなー
鶴も日常会話ではほとん
ど出てこないから
パッとわからなかった。
四字熟語はどんどんおぼえるべし。
中国人の友達や同僚は言っていたのかもしれない。
きっと私が聞き返したり、
理解できずにきょとんとしていたら
簡単な言葉に言い換えてくれていたのだろう。
そういう言葉がリスニングではたくさん出てくる。
まだまだたくさん眠っている言葉。
それを少しずつ掘って見つけていくのは
さながら宝探しのようではないか…と思うのだ。