#05 本に印を入れるということ: 『ほんやのポンチョ』
本に印を入れるのは、そのときの思考を追体験するためだ。
『ほんやのポンチョ』。『えんとつ町のプペル』でも有名な西野亮廣氏の作品だ。彼の作品は賛否両論分かれるようだが、『ほんやのポンチョ』は二つの意味で素晴らしい。
文学と音楽、あるいはリズムの関係は不可分のものだ。俳句や短歌の重要な要素の一つはそのリズムだ。もう少し長くてそれが詩になっても、その韻律がリズム感を生み出している。さらに長い小説、これはどうだろうか。なるほど『おやすみ、ロジャー』のような小説はわかりやすい。だが、それだけではない。ミラン・クンデラは小説を反叙情的な詩と捉えている作家であり、それゆえ『存在の耐えられない軽さ』の構成は組曲を思わせるものであるし、実際に音楽的技法に基づいて構成されている(これについては池澤夏樹氏の訳者解説が詳しい)。
『ほんやのポンチョ』もそうだ。「7・7・7・5・7・5・7・5」。このリズムが心地よいのだ。こういった作品は声に出してこそ魅力がさらに引き出される。まさに朗読にはうってつけなのである。
もう一つ、これは紙に書かれた本を読みたくなる本なのだ。『薔薇の名前』で有名なウンベルト・エーコが『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』という極めて挑戦的で挑発的なタイトルの本を執筆したのは2010年のことだ。それから10年が経ち、電子書籍はさらに一般的なものとなったように思われる。電子書籍に抵抗のあった私でさえもLINEマンガをダウンロードしているくらいだ。
しかし、紙に書かれた本はやはり素晴らしい。本の重み、ページの手触り、本自体あるいはインクの匂い、ページをめくる音、本を読みながら飲む紅茶の味(紅茶の味だからこそこれは様になるのであって電子書籍では様にならない気がする)etc。電子書籍でもメモを書いたりページに付箋をつけたりすることは可能だが、ページにペンで直接文字を書くときのページに引っかかる紙の感覚や、ページを折り曲げたりする感覚、そして折り曲げて膨らんだ本、これらは電子書籍にはないものだ。
ページに書かれた走り書きや、折り曲げられたページ。記憶は五感と結びついて強く定着する。本に入れた印を見て、読んだときにどのように頭を動かしていたのかを再び追いかける。そうしていると、時々「この本を読みながら他の人はどうやって頭を動かしているんだろう?」なんて疑問が湧き上がる。線やメモ、ページの折り曲げられた本を読みたくなる。印の入った本も一定の需要はありそうな気がするが、ありそうでないものだ。そんな読書好きの夢が絵本の中とはいえ展開されているのが『ほんやのポンチョ』なのだ。
※この前大学図書館で本を借りたときに、借りた本に鉛筆で色々と印が書かれていました。個人的にはサーベイする上で少しは役に立ちましたが、図書館の本への書き込みはやめましょう。