#16 イエス・キリスト、西田幾多郎、上野千鶴子ーー「苦しみ」と「哲学」に関する論考

情熱と苦しみは本質的には同じものだ。"passion"という言葉には「情熱」と「キリストの受難」の二つの意味がある。だが、情熱が苦しみを生み出すのか、はたまた苦しみが情熱を生み出すのかーー。

西田幾多郎は、哲学の動機について「哲学の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない」(西田(1930)「場所の自己限定としての意識作用」)と述べている。その西田は、肉親や子や妻の死や実家の没落などの悲しみの中で独自の哲学を編み出した。西田の哲学はぐるぐると話を描くような論理展開をしており難解だが、おそらく「絶対矛盾的自己同一」という概念を説明するためには致し方ないのだろう。それは、一見対立するもの同士がじつは相補的だとする概念だ。西田は、身内の死を実際に経験するなかで、生と死という一見すると対立する二つが実際には一つにつながっていると直観していた。これを「絶対矛盾的自己同一」という概念に昇華することで、身内の死の苦しみを克服しようとしたはずだ。

先に"passion"という言葉を取り上げたが、イエスの場合であれば、ローマの圧政下のパレスチナで生まれたことがその悲哀であったのだろう。そこから、生み出された哲学は、武力ではなく「愛(アガペー)」によってローマの圧政に立ち向かおうとするものであった。

もう少し身近なところで考えると、上野千鶴子にしても、実家や学生運動の中での男尊女卑からフェミニズムに活路を見出してきた。こうして考えると、時代や洋の東西を問わず、多くの哲学者や社会運動家は自身の苦しみからスタートしてきたのではないだろうか。その意味では、自身の「苦しみ」を直視することは、哲学への道を半歩踏み出したようなものだろう。「哲学ドリブン」で「研究」するということは、ある問題に直面する属性に包含される当事者としての苦悩を言語化し表現し、そしてその苦悩を少なくとも緩和し、あるいは解決する道を探るということである。

すでに幾度となく述べてきたと思うが、私の場合には、ASD(自閉スペクトラム症; アスペルガー症候群)当事者としての生きづらさを、「政治・社会的個人主義」および「経済的自由主義」の両立を目指すリバタリアニズムという政治・経済思想によって緩和・解消する道を模索している。その哲学を表現するための文体が経済学でありモデリングなのだ。

だが、あくまで半歩である。というのは、「悲哀」とは単なる苦しみや悲しみ以上のものだからだ。おそらく、哲学とは苦しみや悲しみに抵抗するための武器なのだ。思考し続ける中で、論理という刃の切っ先を研ぎ澄まされたものにしなくてはならない。そうであるとすれば、残り半歩は「抵抗する」覚悟を示すことにあるのではないか。もはやお行儀よくはいられないのだ(※この発言はトーンポリシング批判ではない)。

さて、"passion"という単語が出てきた以上、また、「ある問題に直面する属性に包含される当事者としての苦悩」というように当事者問題についても言及した以上、"compassion"ーー「共感」や「同情」と訳されるものーーについても触れたい。"compassion"、それは受難(passion)を共にする(com)ことだ。

だが、おそらくこれには2つの意味で限界がある。それは、第一にはたとえ同じ属性として一括りにされている人であっても置かれている状況には少なからず差があることであり、第二に異なる個人を(ある種実験室的に)全く同じ状況に置くことができたにしても、個人ごとに認識が異なる以上、その苦しみは全く同じものとはなり得ないからである。結局、個人が他人の心情を代弁できるなどと考えることそれ自体が傲慢なのだ。看護師をしている私の叔母には常々「社会科学の道を進む以上は困っている弱者や当事者に寄り添うことが大切だ」というようなことを言われてきたが、私にはその言葉を簡単には口にできない。口にするにはあまりに危険が大きすぎる。当事者問題はある面では属性問題であるにせよ、究極的には個人問題として捉え直すべきものでもある。抱える問題が似ているから、それをわかりやすく属性にまとめただけだ。そこを見落とすと個人を轢き殺してしまう。

政治家に当事者の苦しみを代弁してもらい、政府という強制力を持ったものに当事者の苦しみを解決してもらおうというのは尚更危険が大きすぎる。マイノリティである当事者の中にいるマイノリティにとって、それは苦しみを増幅させる可能性が強い。生理がそこまでひどくない上の立場の者が、生理がひどい下の立場のものに「私だって生理あるけど、さてはサボりだな」みたいなことを言うといった話はよくTwitterなどでも目にするところだ。

ポパーやヴェーバーは、真理に到達することの不可能性を前提に反証可能性や価値自由を重視し、その不可能性がゆえに自由が重要だと結論づけた。これと同じことが言える。当事者の苦しみもまた完全なる理解は不可能だということを所与とした上で、その不可能性がゆえにパターナリズムに陥らぬよう注意することが重要なはずだ。

(おまけ。今日は少しだけ英語の勉強をしていた。そのなかで"compassion"という単語が登場したことから、このエントリの執筆に取り掛かった。)

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