〜さんは〜人ですを教えるときに最近感じる違和感について
最近、みんなの日本語第一課の国籍を教えていて思ったことを書いてみようと思います。
最近、italkiで初級者を教えることが増えてきました。
これは望んでいたことだったので良い流れが来ていると感じます。
みん日の第一課は私は(名前)です。(国籍)人です。を教えます。
日本語学校時代は中国人とベトナム人しかいなかったので、特に問題も違和感もありませんでした。
日本も単一民族とされてる国で、日本人と外国人をはっきり区別するし、その国出身の人は〜人と呼ぶのが当たり前のように思います。
しかしitalkiで様々かつ複雑なバックグラウンドを持つ学習者にたくさん会ってきて、この〜人という概念って、本当に教えるべきなのか、というふうに考えるようになりました。
例に挙げると、ある生徒さんはドイツとトルコのハーフ。育った国も違うし〜人と定義しにくい。
また、マカオで生まれてオーストラリアで育った生徒さんなど、簡単に「〜人です」とは言い難い人たちもいます。
マカオの学習者は、やはり生い立ちをよく知らない人に聞かれるのはuncomfortableと言ってました。
レッスン中のちょっとしたクイズで、ハリウッドセレブや有名人の写真を見せてこの人はどこの国の人ですか?というのをやりました。
その中にキアヌリーブスがいたのですが、ある学習者は言いました。
「キアヌは複雑だよ。カナダ人だけどレバノン生まれだし子供の頃に世界を転々としてるしいろんな血が混ざってるしね。」
その学生は映画が好きで、結構映画や俳優について詳しい人でした。
よりによってめちゃくちゃ複雑な生い立ちのキアヌを、イケメンという理由だけでクイズに載せちゃってました。
そもそもカナダ人、と言っても元はアメリカ同様、先住民がいたところにイギリスやフランスがやってきて植民地になったわけだしこれがカナダ人、と言える定義は存在しないことを改めて思ったわけです。
そんなことがちょこちょことあって以来、生い立ちが複雑な学習者に対しては、無理に私は〜人です、という当てはめるようなことはせずに、〜出身という言葉に置き換えて提示するようにしています。
私自身も、実は生い立ちが複雑で、日本国籍ですが、そこに至るまでは色々ありました。
それもあるからかもしれません。この〜人です、を教えるのに何かひっかかるものがあります。
あとはこの問題とは逸れますが、みん日は最初に出てくる国籍名が多すぎてそれをリピートさせると飽きてくる学生も結構いるのでこれは必須なのか?と疑問に思うところもあります。
オンラインレッスンは、お金をいただきながら教える技術を学ぶだけでなく、学習者自身からこのように時には複雑な事情も学ぶことができます。
インターネットと日本語という言語で繋がった不思議なご縁。
これからも自分のところに来てくれた学習者さんたちを、どんな事情があっても大事にしていきたいなあと思いました。