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才能は自分の「当たり前」の中に!

こんにちは!

今日は「才能は自分の「当たり前の中に」と言うお話。

自分でも一番ビックリしています。何にビックリしているかって、普通に私は会話の中で相手のことを「チャネリング」をしていたという事実を知ったこと!

普通に会話しているつもり。これまで通り。

だけど私はいつも会話しているようで会話していないような感覚がある時があります。ものすごく記憶力がいい方なのに内容を全く覚えていなかったり、自分でそんなこと考えていなかったのにっていうアイデアや意見が滑るように口から出てくるのです。

患者さんの担当をしているときもそうでした。

私は会話をしているとどうやら患者さんの心の声を聞いていたようです。他のセラピストに「なんで相手の気持ちがわからないんだろう?」って感じてしまうくらい、近くで会話してたりすると感じてしまうんです。

当たり前すぎて「普通でしょ?」「私って気配りの天才だな〜」とかくらいにしか思っていなかったのです。小さな頃から「空気を読む」のがとても得意でわざと「空気」のように存在していました。

触れば身体の声がわかる。

話をすれば心の声がわかる。

コミュニケーションってそういうことだよね?って当たり前の中にいました。

だから「コミュニケーション」を教えてもらっても、相手を深掘りしなくても「わかる」のが普通でしょ?って。

世の中、それが普通ではないことをこの歳になって知りました。

自分のことはわかりにくい

これが事実。

たくさんの自己分析法を学び、たくさんの学びを重ねて、たくさんの出会いがあっても「自分の本質」をわかることって難しいですよね。

アンテナはいつも自分が会話していたり、興味を持っている対象にはられていて、自分自身には向いていないことが多いのです。

特に私は小学生の時点で完全に自分の感情をシャットダウンして生きる努力をしてきたコンピューター人間なのです。パソコンは便利だけど、自分自身で自分の問題を解決しないでしょ?それと一緒で生きている私は人工知能で動く道具みたいになっていました(笑)

話は脱線しましたが、自分で自分をわかるプログラムを入れない限り、自分のことには気づけないものです。

自分にとっての「当たり前」って誰にでもできることと思っていることだったりします。そこがすごい才能だなんてこれっぽっちも思わない。

自分でできて当たり前のところを他人と比較することって日常では少ないんですよね。

人間ってどうしても欠けた部分、できない部分に注目してしまう生き物なので、「あの人に比べてこれもできていない」「こんなところがダメだ」「もっとこうしないと」って、自分の「できない」に目が向いてしまうもの。

そうなると、自分の「当たり前」には見向きもしなくなるのです。


もったいない!!!!!


今ならはっきりそう思います。

「気づき」が最高のプレゼント

だからこそ、生きていて自分の才能に気づかせてくれる環境だったり、友人だったり、チャンスだったりって本当に宝物だと思います。

どんな出来事も、環境も、チャンスも失敗も全てが絶好の「気づき」のチャンスだと思うのです。

ただし「気づき」のチャンスは平等に与えられていても、気づけるか気づけないかはあなた次第。気づくことにアンテナを貼っていないと全てスルーしてしまうことになります。

「気づく」ために必要なことはたった一つだけです。

身体の声を聞くのにも、心の声に気づくのにもたった一つ。

それが「感性で生きる」ということです。

感性で生きるとは?

「感性で生きる」

はい、そうします!って簡単に言えるようで、実際に感性で生きるのは毛っっこう難しいことです。コンピューター人間だった私はこれを痛いほどわかっていたのにできていなかった。

それはね、、、、

「傷つくのが怖いから」

感性を押し殺した理由って、私にとっては「恐怖」「不安」だったので、感性を解放することは「恐怖」でしかなかったのです。

みんなそれぞれ自分の感性を隠している理由が違います。

私の場合は、「一人にされる」ことへの恐怖でした。友達との関係、親との関係、世の中との関係。小さな頃に何故か自分が感じてしまった恐怖感から感情を押し殺して生きることを決めてた。

だから、感情を解放することが怖くて怖くて怖くて。

ものすごくチキンな私に気づいてしまったのです(笑)

もちろん、コンピューター化した理由は一人でも生きられるようにして、誰に頼らなくても生きていける力を持つため。自分なりに恐怖を克服するための努力を重ねて生きてきたんです。

こんなに「一人」でいることに強くなったんだから、もう怖くないんじゃない?って気づくことができたのがつい最近のこと。頭でわかっていても、なかなか私は変われなかった。

きっかけは「人の温かさ」に触れたこと。人間関係がどうとか、付き合いの長さがどうということではなく、相手を思いやれる人の「器の大きさ」に感動して涙が止まらない経験をさせてもらったから。

本当にこれまでどれくらいバリケードを張って自分を守り通して生きてきたのか。ビックリするくらい恥ずかしい気持ちになりました。

環境を変える

「感性で生きる」ためにも安心して自分を解放できる場所が必要なんだなと思うのです。

人が本当の意味で成長できる場所は居心地の悪い場所、自分が理想としている環境で過ごしている「当たり前の違う人」との環境だと言われて、そういう場所にも行ったことはあるけど、結局は自分を出せないから何の成果も出せませんでした。

ストレスのかかる場所で学ぶべきことは人間性と器の大きさに触れて、安心して自分を出せる環境にあることを体感し、気づき、感性で生きられるようになった人だけが、本当の意味で成長できる環境といえると思います。

環境を変えるという意味を履き違えると、さらに自己肯定感が下がって、とんでもないことになる可能性があるので、注意してくださいね!

私は「居心地のいい場所」ではなく、「気づきをくれる場所」に環境を変えることをオススメします。

甘えた人間関係のままではどうにも変わらないし、普段と変わらない日常では「気づく」こともできないよりも、少しストレスがかかって、自分で自分のことに気づける環境が良いと思います。

あなたがあなたの本来の姿を出せる場所に環境を変えられたら良いですね!

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