『あなたの燃える左手で』に隠れた自我がざわめき立つ
作家の皆川博子さんが書かれているこの帯につきる。
第51回泉鏡花文学賞、第45回野間文芸新人賞をダブル受賞した『あなたの燃える左手で』(著:朝比奈秋)は本当に凄かった。
これは現実なのだろうか。
それとも自分の記憶が違っているのだろうか。
読んでいる途中で、自分の記憶を確かめずにはいられない。
クリストファー・ノーラン監督の『インセプション』や『メメント』を観たときと似たような感覚に陥る。
読み終わるとすぐに本を読み返したくなる。
すると、まったく異なるストーリーが浮かび上がってくるではないか。
この本は、ひつまぶしだ!
一杯目はそのまま食べ、二杯目は薬味で味わい、そして三杯目は煎茶やだし汁をかけて鰻を食べる、あれですか?
そう、一度目は夢中で読み、二度目は記憶を手繰り寄せながら読み、そして三度目は「ほうっ」となる。
せっかく新しい美味しさに出合えるのであれば、おかわりしないともったいない。
もちろん、ひつまぶしの話ではない。
この物語の主人公は、ハンガリーの病院で内視鏡技師として働いていたアサトという日本人の男性。
妻のハンナとはハンガリーの大学の看護学部で知り合い、彼女は世界の紛争地域を取材するウクライナ人のジャーナリストだ。
あるとき、アサトの左手に悪性の肉腫があると診断され、左手を切断することになる。
切断して6年が経過しても、失ったはずの左手の先に幻の手が存在するように感じ、どうしようもなく痛む。
この「幻肢痛」という症状がおさまることはなく、最重症ということで移植の対象となり、他人の手を初めて移植された日本人になるのだが……。
分断して繋ぎ合わされる左手の再生物語……事実にだけ目を向けると確かにそうなのだが、物語の構成が恐ろしいほど綿密に練られている。
左手は、縫合された移植直後の状態からスタートする。
この物語は0から9のセクションで成り立っていて、「左手切断」と「左手縫合」に関わる出来事が、0から9に散りばめられている。
左手を切断し、他人の左手を自分の手として使えるようになるまで、7年の月日が経過している。
物語はこの7年の間を行き来する。
冒頭のエピソード0はたった数ページであるが、緊張感が半端ない。
それもそのはず、クリミアが関係しているからだ。
2014年にウクライナの首都キーウでマイダン革命が起き、ウクライナ領だったクリミアがロシアに併合されたニュースはまだ記憶に新しい。
アサトの左手の切断はクリミア紛争とは関係ないのだが、このクリミアにおける領土問題が物語の背景にある。
そして、1から9のセクションは、必ずしも時系列通りに並んでいるわけではない。
3は左手縫合後のリハビリ初日のことが書かれている。
4は左手切断前後に遡る。
そして5のセクションは、アサトの向かいの部屋で入院している同僚をキーにして、記憶と記憶を結合すると、3と5が繋がっているのがわかる。
そうやって、共通のものや出来事を見つけ、繋ぎ合わせていくと、見過ごしていた記憶のピースがガチャッとはまり、虫食いのようになっていた記憶のパズルが完成するというわけだ。
また、同じハンガリー語でも、出身の違いを方言で表現しているのも面白い。
アサトの脳内では、フランス語が津軽弁に似ていると感じたため、フランス語圏の人が話すハンガリー語は津軽弁に変換される。
また、アサトいわく、妻のハンナはイントネーションがエモーショナルなウクライナ語なので、アサトと話すハンナは見事に関西弁を操っている。
主治医のゾルタンは標準語だ。
この、手の専門医のゾルタンによって、アサトの左手は縫合されるのだが、移植は、他者の一部を受け入れて自我を削りとるものではないかというゾルタンの考えに、ハッとさせられる。
分断して、繋ぎ合わさったのは他人の手であって自分の手ではない。
心と体は繋がっているとよく聞くが、果たして、この手は自分の手と言えるのだろうか。
手の部分を国に置き換えてみる。
自我と免疫が強く関係しているのではないだろうかとゾルタンは考える。
左手と国境がいつしかリンクする。
とんでもない作品だ。
言葉のひとつひとつを逃さずに、どれだけ大事に読んでいたとしても、やはり、二度、三度と読み返したくなるのではないだろうか。
ハンナの言葉が耳に残る。
「いけなくてごめんやで」
「ふふふ、ないよりましよ」
この関西弁がやさしく、そして恐ろしい。
難しいテーマではあるが、読み終わった後はきっと誰かに話したくなるに違いない。
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