スマホを無くして得たものは
スマホがない、と気がついた時は夜の10時をまわっていた。
「ねえ悪いけど私に電話かけてくれない?スマホ見つからないの」
やれやれと立ち上がった夫。
「おい、オレに電話かけてくれない?」
「ふざけないで」
「いやふざけてない。ホントに無いんだ」
情けない。お互い歳をとったものだ。
ほどなく夫のスマホはソファーの隅で見つかった。
「じゃ鳴らすぞ」
夫が何度も私のスマホにLINE電話をかけたが、まったく音がしない。
「ああ、さっきのスーパーだ……」
やっちまった。さっきスーパーで財布を取り出す時に手にしていたスマホをレジカウンターにちょっと置いた記憶がある。
きっとそのまま忘れてしまったのだ。
とはいえ、もうスーパーはとっくに閉まっている時間。
たぶん親切な方が気づいてサービスカウンターに届けてくれただろう。
いやでも、もし良からぬ方が拾っていたとしたらどうしよう……。
私はいつか観た映画を思い出した。
「スマホを落としただけなのに」
女性の個人情報が入ったスマホを恋人の男性が紛失したことで、人生のすべてをハッキングされてしまう女性のストーリーを描いたサスペンスだ。
徐々に恐怖に苛まれておびえる女性を北川景子が演じた。
恐怖におびえた顔をしても美しい人はやっぱり美しい。
私は北川景子に1ミリも似ていないが、もはや気分は北川景子だった。
どうしよう。警察に届ける?
いやでも待て。明日スーパーに尋ねてからにしよう。
いやしかし、すでに良からぬ人の手に私のスマホがあるとしたら……。
しまった! 私は推しの写真を待ち受けにしているから容易にパスコードもわかってしまうだろう。
「コイツバカだぜ、見ろよ」と楽しそうに私のスマホを回す奴らの顔が脳裏に浮かぶ。
「やめて!!」
苦痛に顔をゆがめ叫ぶ北川景子。いやいや浸っている場合ではない。
いつもなら寝る前にLINE、Instagram、X、Facebookなどひととおりチェックしてから眠りにつく。
眠る前に見るのはよくないと知ってはいるが、次々と面白いコンテンツを見るうちについ夜更かししてしまうのだ。
これは忙しい毎日の中で一息つくお楽しみの時間。
でも今夜はそれができない。
それどころかもしあのスマホが戻らなければ、どれだけ不便なことだろう。
時計、PayPay、ネットバンク、家計簿、孫の写真共有アプリ、カメラ、天気予報、乗換案内、Google翻訳、連絡先、勤怠、英会話アプリなどなど考えただけでもパソコン以外で使っている機能がこんなにもある。
そうだ、2週間後に控えた推しのライブチケットだってQRコードを読み取るタイプなのに
どうすればいいのだ。
考えれば考えるほど不安が募ってくる。
と、「お~い」と寝室から大きな声がした。
「あったぞ~!」
あった! 愛しのスマホがなぜか夫のベッドサイドから出てきた。
「よかったあ!!」
よくよく考えてみれば夕食後洗濯物を畳んでいた時、適当に置いて忘れていたのだ。
私はむさぼるように新着の通知をチェックした。
しかしふと我にかえって考えると、数時間手元にないだけでこんなに不安になる自分は
もしかしたら依存症になっているのかもしれない。
そう思い、私はさっそくAmazonで「スマホ脳」をポチった。
ああ、そういう傍からやっぱりまたスマホを使っているではないか。
「スマホ脳」は2020年スウェーデンの精神科医アンデシュ・ハンセンによって執筆され翌年大ベストセラーになった本だ。
著者は「スマホは私たちの最新のドラッグである」と言う。
楽しい時や嬉しい時に出る「脳の報酬物質」とも呼ばれる化学物質ドーパミン。
スマホの通知やSNSは、脳にこのドーパミンを頻繁に放出させ私たちはスマホに依存しやすくなり短期的な快感を求め続ける悪循環に陥るのだそうだ。
私も気がついたらベッドの中で1時間も手がしびれるくらい見続けていたことがある。
もうこの先何年生きるかわからない、いい歳をした私なのになぜこんな時間の無駄遣いをしてしまうんだろう。自分が情けない。
そして何かに集中しようとしても常にデジタルな邪魔が入ることで、気を散らされる。
いつも傍らにはスマホがあるから、家で仕事中も映画を見ても読書をしても通知が鳴ると確かめずにいられない。もちろんマナーモードにしていてもだ。
思えばスマホのない時代の方が読書にのめり込むことができていた。
あの読了した喜びを久しく忘れている。
また様々なSNSで自分のコメントを投稿する機会も増え、正直気がつけば「いいね」や返信を心待ちにしている自分がいる。
現実では決して社交的ではない私だが、唯一言葉というツールを使って少し社交的になった気がしていた。
だが著者の5,000人を対象にした実験によると、リアルに人と会う人ほど幸福感が増しFacebookに時間を使うほど幸福感が減ったと言うデータがある。
それは現実の社交の代わりにはならないというのだ。
すべて鵜呑みにするわけではないが、SNSで繋がった、「いいね」をたくさんもらったと喜んでいる自分がアホに思えてくる。
ほかにも睡眠への悪影響、精神的健康へのリスクなど悪影響など読めば読むほどに、
今完全に捉われているこの小さな物体が恐ろしい化学兵器に見えてきた。
早くもその悪影響を知ってかデジタルデトックスをする人もいる。
ある女性は週末駅のコインロッカーにスマホを入れて物理的にスマホを触れない状態にしたところ、食事がいつもより数段美味しく1日が充実したという。
試す価値はあるかもしれない。
恥ずかしい話だが私は平均して1日3時間ほどスマホを見ていたので、1年にすると1,095時間にもなる。恐ろしい数字だ。
これだけあれば本の1冊も書けそうだし、停滞気味の英会話をもっと頑張りたい。
興味はあるものの行くのをためらっているピラティスを体験してみるのはどうだろう。
なんだ。スマホから離れることで時間は生み出せると思うとちょっとわくわくする。
「スマホ脳」は最後にこう結ぶ。
睡眠を優先し、身体をよく動かし、社会的な関係を作り、適度なストレスに自分をさらし
スマホの利用を制限すること。これが元気になれるコツだと。
まずは昔使っていた目覚まし時計を引っ張りだし、もう寝室にスマホを持ち込まないことから始めてみようと思う。
1週間、1ヶ月、そして1年と続けられたら私は自分に「いいね」をあげよう。
デジタルな「いいね」よりそれは私を充たすに違いない。
≪終わり≫