素朴な疑問。
「がんばる」というのは、
主観的なものなのかもしれないと、
最近思う。
自分の中にある、
知識や認識の範囲内でしか、
人は「がんば」れない。
少なくとも、
自分の意思や意図を伴って、
「がんばる」時には、
行動目標が自分の中に、
明確に描けていて、
初めて成り立つのだと思う。
*
その、前提の上での、疑問。
*
高い結果を出せる人のもとには、
同じくらい高い結果を出せる人々が、
近くにいるように思う。
たとえば、その「高い」というのは、
物事の優劣を意味するのではない。
けれど、学校教育の上でも、
同じ試験問題を前にして、
スコアを測られることは、
なんら珍しい事ではなくて、
そのスコアをもとに、
歩める人生というものがあれば、
歩めない人生というものもある。
それが、現実だと思った。
*
そして、その意味で、
改めて、考えたい事がある。
習い事でも、何でも良い。
ネット動画でも、何でも良い。
「ノウハウ」というものに出会えた瞬間、
一瞬にして解決出来る悩みは、
確かに存在するのだと思う。
「一生懸命」とか、「がんばる」とか、
自転車のスタンドを外さないまま、
必死にこぎ続けていても、
1mmも前に進めない。
こいでいる本人は、
相当に一生懸命で、エネルギー消費を、
するかもしれないけれど…。
*
つまり、まずは、
このような現実的視点を、
持てるかどうかも、
1つの境界なのだと思う。
事象を理解することもなく、
目的意識を明確に持つこともなく、
「がんばる」とは、
何に対して「がんばる」のか?
充電時間が長いわりに、
アプリ起動が遅くて、
バッテリーが保たないとしたら?
でも、スマホはきっと、
「がんばって」いるのだと思う。
調律してもらえない楽器も、
「がんばって」いるのだと思う。
そんな電子機器も、楽器も、
時にとても愛おしいけれど…。
愛着と性能は、別問題でもある。
*
私自身を振り返って思うのは、
そういうことを、知らなかった。
「がんばる」前に、
「がんばり方」を、学ぶ必要性を、
知らなかったから、
だいぶ遠回りしてきたのだと思う。
でも、良いかどうかは別として、
物事に対する立体的側面をも、
加味できる様になって思うのは、
(少なくとも、過去の自分よりの意で)
「なんだ、そんな事どっちだって同じじゃない?」
と、思っていたことほど、
長い目で見れば、大切なキーポイントだった。
そして、今まだ知らない事が、
日常の中に沢山あるのだろうと思うと、
やはり、学びたいと思う。
*
結局のところ、何でも、
良し悪しで判断するというより、
自分はどちらが好きか?なのだと思う。
言葉は難しい。
駅と駅の間で途中下車したいような、
言葉と言葉の間が欲しい時が多い。
自分の人生は、
自分で決められる。
いや、それだって、
必ずしも、そうでもない。
それでも、
「自分で決められる」ように
なりたいと思うのなら、
今の時点から何か、
手に入れてゆきたいものが、
あるとしたなら、
次なる一歩に続く選択もまた
自分で考える必要が、
きっとあるのだと思う。
それは時に、
「受け入れる」ことだけを
意味するのでもなく、
時には「受け入れない」ことであり、
そうかとは思うけれど保留にする
「受け留める」でも、あるかもしれない。
いずれも、無条件に、
受け入れ「なければならない」訳でもない。
*
そして、本当の自由とは、
何1つ決まっていない、
最も自分の意思が問われる世界だとも、
気付かされる。
そんな考え方さえ、
しないのも、自由。
無重力空間の、宇宙みたいな選択肢が、
無限に広がった時に、
自分で決めるというのは、
どれほど勇気が要ることかと思う。
いや、ただ、シンプルに考えよう。
心の声に、
耳を澄ませて。
他の誰でもなく、
私は、どうしたいのかと。
なにを、望むのかと。
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