良い習慣である声かけ
オーストラリアから帰国してから今までずっと慣れないのが、日本で歩いている際に他人同士の声かけがとても少ないことです。
中には、声をかけてくれる人もいるのですが…
と、言っても見ず知らずの人が雑談するとかそういう声かけでないのです。
すれ違う時の声かけです。良い習慣だなと思い気に入っていたことのひとつ。
すれ違いの際の声かけとは、自分が通路など通る際に他人がそこにいた場合
“Excuse me.” と言って通ることを知らせることです。そして、相手が道を空けてくれたら
“Thank you!” とお礼を言う。または、行動で感謝を知らせる習慣です。
これを行うのには、合計時間でほんの数秒くらい取られるだけ。その少しの手間をかけるだけで衝突のリスクが減ります。そして、不便がなくなるので不快感を感じません。
かなりおかしな人の場合は、無視したり変なことを言ってくるかもしれませんが、その場合はその場から離れてしまえば危機から逃れることが可能な為、どちらにしろ良い。
例えば、お店なんかで陳列されている品を選んでいる時は当然人には眼は2つしかない為に、他人がその商品を取りたかったとしても気づきません。
しかし、互いに一言“Excuse me.” と声をかければ譲り合える。スッキリしたコミュニケーションで良い。
しかし、日本に帰国してから、「すみません。」と一言声かけをする習慣がいない人もかなり多く、どうしてもそのせいで嫌な気分がしてしまいます。
と、いうのもこちらが相手に気づき気を利かせてさっと道を空けることが出来れば良いのですが、先ほど書いているような場合に視線が別の所にあれば気づかないのです。
だれでも、他人を譲ることなど平気だった場合でも、単に分からないはずです。
なのに、なぜかすぐ譲ってもらえないと謎に怒ってイライラした視線や不快だなという表情を見せてきたりする人がいる。酷い人だと、急に暴言を吐いてきたりもする。
中には、何も言わず狭い道を無理に通ろうとする際にぶつかってくる人も跡をたたない。もっと酷い人だと、そこどけよ!と言わんばかりに激しくぶつかってくる人もいてかなり痛い思いもしました。あまりに痛いぶつかり方だった時に、「痛っ!いい加減にしろ!ふざけるな!」と自然と口から出てきました。すると、言い返さない人が多いからか、誰しも驚いた顔をし顔を隠すように早足で逃げるように通り過ぎて行きます。おそらくは、ぶつかることは悪いことという意識はあるのではないかと。
私は、アメリカでもオーストラリアでも一般人がこのような動作をし、尚且つぶつかってきた経験など一度もありません。(一般人と書いたのは、異常者もいるからが理由。)
オーストラリアにおいては、9年以上パース近辺に住んでいましたが一度もなかった。
「すみません。」「ありがとう。」
のやり取りで穏便に通行していました。
しかし、日本においては察してもらおうの意識の人が多いせいもあるのか無言な人が結構な数いる。相手がぶつかるかぶつからないかの世界で生きているので、まだ慣れず正直嫌な気分しかしない。
英語圏では、察してもらおうの意識で譲ってもらうのを待ち、気づかれなければ不快感を出したりぶつかるかもしれないというのはただの我儘に見られる。その習慣をもって通行などしていたら逆にキレられる確率の方が高い。血の気が多い人も多いので、何も言わず隙間通行の際、うっかりぶつかりでもしたら
「なんだ!こんやろう!舐めてんのか!いてーなぁ。ぶん殴ってやろか!」
ぐらいの勢いで文句言われる場合の方が多いだろう。実際、日系人がスーパーで言われているのを目撃したことも……
私はすれ違う時は、一言声かけるだけで危険を回避できるので安全性としては、
「すみません。」「ありがとう。」
の声かけの方が良い習慣だと実体験から理解できた。
察して欲しいというコミュニケーションは、悪いことばかりではないが相手に委ねているという甘えがあるのも事実だ。
その甘えのせいで、相手に痛みという危害を与えかねないのに逆にイラつくとしたらかなり変だと考えた方が理にかなっている。
この文化背景から来た習慣は、通行の際には良いことの方が少ないだろう。それどころか、問題も多い。
通りたい人も通す人も声かけが生じた方が、気分を害する可能性は少ない。
私はだから通行する場所に人がいれば必ず
「すいません。通ります。」
と声をかけている。地域によっては、これを言う人の方が少なく浮くのだが危険よりはマシなので実践している。
せっかく良い言語という発明品。
危機回避のために、使っていく視点を持てないものだろうか……
もしこの無言で通過する習慣を、外国人に発動すればもしかしたキレられてそのうち殴られたり、酷ければカッと来て刺されたりする人が出ないだろうか…とかたまにそんな事も頭をよぎって妄想してしまうのだ。しかもかなり鮮明に……