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勉学意識について
たまに日本人は勉強しないとかいう言説を見かけるがそれは事実だろうか。
これは特に、学校という仕組みに関する話になると私は少々疑問に思う。
勉学意識とは何だろうか?
私は、日本でもオーストラリアでも大学生活を経験した。日本では、材料機能工学で修士まで通い卒業。豪州では、商学系の会計学を学び学士で卒業した。
なので、理系と文系を両方体験した。
オーストラリアには、地元学生だけではなく留学生もいたので色々な国出身の人がいたが、日本人と比べて勉学意識は高いのだろうか?
豪州のカリキュラムは、必ず提出しなければいけないアサイメントと呼ばれる課題があった。
これは勉学意識があるかないかに関わらず、必ず期限内までに提出しなければいけない。
しかも、細かいガイドラインを必ず守らなければ落第となる。
普段のセミナーの多くは参加型で、当日無作為に問題を解くように求められるものが珍しくなかった。突然、質問される場合も多々あった。
このアサイメントと、日々出される問題は湧き出てくるくらい大量。
セミナーは、準備はしなくても良いかもしれないが、予習復習しないと最終的についていけなくなりやすい。
教科書のページ数も何千とかは軽くいくし文字の大きさも細かくとても分厚いものだ。1教科だけでそれが何冊もあり、補足資料や各教員が準備したネット上の資料もあった。
別に全部読む事を強制されてはいないが、これら大体全てからが試験範囲となる。ちなみに課題から、ランダムに出題される場合もある。
自分が理解していない所を常に上手に把握し、対策していなければ卒業は難しくなる感じで、
一単位でも落とすと留年決定の仕組みだった。
なので、卒業したければ嫌でも机に向かわなければ難しい。提出課題は、グループで行うものもあるので擦り合わせ時間も必要となる。
そのために、自然と勉強時間は激増する人が多いのだ。しかし、これが勉学意識と関連しているかは不明だ。
全く人によっている。
カリキュラムからして、強制的に軍隊式に従わされているから何が何でもガリ勉しなければいけない時間が生まれている。
自分から興味が高く面白いと思えば、取り組んだ分も印象に強く残るだろう。
しかし、課題を提出せねばいけないから卒業しなければいけないからと、漠然と思い駆り立てられているとしたら、ただの苦痛でストレスだけが強くなる可能性は高い。
実際に卒業証書を手に入れるのみしか本質がなく、明確な勉学の意味、目標の意味がなければ病んでいる人も多かった。
トイレで泣いたり吐いたり、精神薬に頼ったり、酷い奴だと薬物や酒に頼るものもいるのだ。それを見極め関わらないようにするのに、神経を擦り減らしていた…
ただ強制されているだけで、なんのためかの軸がなければここまでやっても実務で活かされるだろうか?
テスト終了。課題提出終了。卒業完了。
その後、かなりの内容を忘れてしまうだろう。
向いていないのに、強制されたからやってるだけとしたら身につかない事は多い。
それは、日本であれ海外であれ同じだろう。
人の本質は国は違うとはいえ、そんなに変わらない。いくら環境が整っていたとしても、本当の意味の勉学意識がなければやっている分ほど意味がないはずだ。
日本は、受験に合格し入学するのが目標になってしまっている人が珍しくもない。
しかし海外はその逆で、卒業するのが目標になってしまっていて、何故それをする事に意味があるのか抜け落ちている人も多いのではないかと感じる。
コネがある人はやる気なく、勉強せずとも卒業できるだろうし就職だって楽だ。
コネなし尚且つ本質を見失っている人は苦痛度だけが高く、留年率、落第率も高い。
そういう人と、学問内容について話し合う事が出来るかといえばその期待は全くできない。
教育の仕組みは多かれ少なかれ何処でも壊れている箇所はあり、改善の余地あるはず。
結局、勉学意識が高い人は押し付けられなくてもよく学習する。何も机に向かうだけが学習でもないのだし…
強制的に縛るカリキュラムは、その本質を曇らせやすい欠点がある。日本の受験や資格システムと同様だ。
そういう点では、あまり何処も変わらないのではと思う。
本来、新しい事を吸収するのはとても楽しい事。
興味を見つけた人は強い。
勝手に能力が上がっていくし、その物自体が向いているという率も高いからだ。
大人が子供に押し付ける仕組みを作るのはあまり良い事とは言えないはずだ。
土台が形成されないとまあ弱い。
勉学意識とは何だろうか?
強制されるものではあるまいな……