「祝う」
「祝う」という感覚がちょっとよく分かっていない。
「めでたい」も同様に。
祝うというと、何か嬉しい事、喜ばしい事があった時。
誕生日や新年、結婚、出産、進学など、節目とされるものはめでたいと言われる。
「祝う」
誕生日に「おめでとう」と言葉を掛け、「ありがとう」と返す。
何が「おめでとう」なんだろう。
この世に生まれてきたこと?
生まれて、色んな経験(体験)を出来ることが「めでたい」から「おめでとう」なんだろうか。
そして、掛けられた言葉に対してと、人に支えられて生きているから、その感謝として「ありがとう」なんだろうか。
私はたぶん、「人の命」を祝うことが出来ないんだ。
その尊さが分かり切れない、感じ取れ切れない。
存在してるんだから、命があって当然とか思っちゃうんだ。
そんなに祝う文化がなく育ったから「人の命」を祝えないのか、習慣なんて関係なく、本来の、根本の私がそういう質なのか。
それならもうどうしようもないね。
「おめでとう」という感情より、
相手に対する「好き!」ばっかり出てくる。
祝えて(そばで表現出来て)嬉しい。とか。
例えば、プレゼントを選ぶとかケーキを作ろうと思い立つ。
でも、それをやってるのを、私がただ楽しんでる感じなんだよね。
相手のため(相手のことを想って)とはなんか違う。
どこまでも、わたし本位。自己満足の域。
それが悪いとは思わないけど、
これを「祝えている」と言えるのだろうか。
疑問には思う。
「好き!」だと上手く祝えているか不安になる。
私は(その準備とかを)楽しんだけど、祝われる側はどうだろうか。満足してくれただろうか。と。
形式として「祝う」こともあるから。
その場合、不安はあまりない。
祝う、感謝を伝える
生まれてきてくれてありがとう、存在してくれてありがとうって、私が言う場合ちょっと打算的かもしれない。
「生きていてくれてありがとう」
こっちの方が今の私にはしっくりくる。(私が欲しい言葉かも。)
(でもやっぱりこれも自分本位か。私が相手に会えたことが嬉しいんだから。)
私はもしかして「生まれて良かった」と思う日は来ないかもしれない。「生きていて良かった」と思う日は来ても。(そんな壮絶な人生は歩んでないけど。)
嬉しいことがあった時はまだ少しわかる。
喜びを表現したくて(自分の外側に出したくて)、言葉に出したり、何かしてしまうのかもしれない。
考えていたら少し飲み込めてきてしまったかもしれない。
相手のため(という名の自分のため)に、
溢れ出てしまった気持ちを形(プレゼントや手紙、料理、行動など)として表現した、その行いを「祝う」というのかも、と。
「めでたい」
めでたい事って、他者もそうだと思って初めて「めでたい」認定される気がする。
だから、そういう時の「おめでとう」という言葉に、
「これは喜ぶべきことなのよ」
というニュアンスを少し感じてしまう。自分が喜んでいるかどうかは別で。
だから「めでたい」もよく分からない。
「これはめでたいこと」
という教育の賜物でめでたがっているというか。
誕生日とかお正月とか、"節目"ね。
嬉しい(個人的な感情)はわかるが、
めでたい(他者が認定)はわからん、まだ難しい。
話は変わる
昨日「私は偏屈で可愛くない、面白みのない女だ」と思い当たった。
そこに卑屈さはない、つもり。
可愛くて面白みのある女を諦められない、諦めたくないんだけど、どうしようもない。
悲しいけど(でも辛くはない)、面白みのない女が私なんだもん。
これは、事実で、諦めるって類のものじゃないんだけど、諦めるしかないような。
というような心境。
これ(偏屈等)を貫く必要もないが、「"それでいいか"と諦める自分」を受け入れることを許せると、それがいい意味で「諦め、降参」なのかもしれない。
少し気が楽な私がいる。
ならいっそ偏屈が楽しくなってくる。