自由には責任が伴うのは必然か?自己責任論について(仮)
練り上げた思考ではなく今の私の単純な疑問を書き連ねた記事である。
自由には責任が伴う、というのは果たして真なのだろうか?一見正しそうに思うのだが、責任の範囲は慎重に考えるべきじゃないだろうか。
極端な話、外に出るかどうかは自由であるのに、外出したから交通事故に遭った(交通違反はしなかったものとする)というのも「自己責任」か?そもそも自己責任という言葉を使う意義はどこにあるのだろうか。
「それは自己責任だね。」その言葉に含まれる意味として、私はあなたの行動の結果に責任を取りません、自分でなんとかしてくださいね、と言う意味が含まれているのだろうと思う。行為者に責任がなければ周囲が助けたり、制裁を加えたりしないと言う効果がある。つまり、他者や共同体が労力や金銭を出資して救済すべき対象であるかどうか、また、制裁を加えるべき対象かを画する概念として機能する(意味①)。
なんらかの選択をしようとしている人に対してデメリットを提示し、「もしこうなっても自己責任だよね。」とその選択を思いとどまらせるケースもあるだろう。自由を享受した結果そのデメリットを被ることは覚悟しろという行為を選択する際の考慮要素の提示としての意味(意味②)。
私が問題だと思うのは、責任の範囲の曖昧さ、特に自己責任を主張する側が過大な責任を行為者に押し付けるあるいは責任転嫁のために自己責任論を唱えるケースがあるのではないかと言うことである。
自分で言うのもなんだが私は努力家であり、努力もせずに落ちぶれている人間なんて自己責任だろうと考えている。この自由主義社会にありながら自己の選択で落ちぶれることを選んだのだから、その結果は自分が甘受すべきだろうと。
しかし個々のケースを見ずに一律に語られるべきだろうか?自己責任だから、社会がその人たちを見捨てる理由になるだろうか?選択の結果があまりにも重大で予測が難しかった場合、自由に行動をとることを人々が恐れ、社会が硬直化しないか?そしてその結果なんらかの「歪み」(例えば治安の悪化)が起きたら、それは社会が「自己責任」と反省すべきと、そこまで考えて言っているか?
例えばめちゃくちゃな生活をして重度の生活習慣病にかかった人の医療費を社会が負担すべきか?ホストにハマって借金まみれになった貧困女性を支援すべきか?犯罪を繰り返して職を失った人を社会は支援すべきか?とかね。
リベラリズムにおける自由と責任の関係に私の疑問解決のヒントがあるように思うので少し関連書籍を読んでみようと思う。