「今」を生きるためのコツ
前の記事でテンション高く感動をお伝えした、一田憲子さんのライター塾に参加してから、早くも一週間が経ってしまいました。
あれから私の中でもっとも大きく変わったことが、「今」の捉え方です。
自分の「引き出し」でものを書く、ということ。
一田さんは、たとえ「自分」を出すことを求められない原稿にも、そのインタビューや事実からどこを拾うか、どんな風に捉えるか、そしてそれを書き起こすことで、自然に「ライターの目線」がにじみ出てしまう、とお話されていました。だからこそ、自分の「経験」と「引き出し」を増やすことが大切だ、と。
確かに、「事実」は一つでも、その物事にどんなラベルを貼って、心の戸棚のどこに置くかは十人十色。
・・・って、この表現自体も、20代後半の大失恋で「ぷっつり切れてしまってフワフワ行き場を失ったけれどもここにあるこの気持ちや思い出は、どう扱ったらいいの!?」と涙ながらに訴えた私に、後輩ちゃんが「・・・それはそっと心の戸棚にしまっておくんですよ」と諭してくれた、あの経験がモチーフ。ほら、引き出しを使うってこういうことですね。
「今」の積み重ねが生きる―それが腹に落ちた瞬間。
閑話休題。
これまでの私はというと、将来の目標が見えない不安、でも今何かやって前進しなきゃという焦燥感、自分の思い通りに使えない時間の中でイライラを募らせる日々。いつでもどこでも、常に「見えない未来」ばかりに目を向けていたわけです。
でも・・・ライター塾で「書く」ということにガッツリ向き合う中で実感したのは、私の中の引き出しを、何度も何度も開けたり閉めたりする感覚。「かつてのあの経験で文章を書いている」―それを自分でかみしめながらキーボードを打ち続けて紡ぎだされた言葉こそ、いつも「視点が素晴らしいね!」「この一文はとってもいいね!」とお褒めの言葉をもらえるのです。文章を褒められるのはもちろん嬉しい。けれど、それ以上に、これまでの自分の経験や物事の捉え方が価値を発揮していることが感じられて、足元がグッと固まるような、そんな喜びを味わいました。
あの2日間が過ぎて以来、意に反して「書く」という行為から離れざるを得ないシーンを迎えても、イライラしなくなった自分がいます。(あくまでも私比)
まるで憑き物が落ちたような変わりようだけれど、その理由は明確。
「予定が狂ってアドリブ連発で一日をやりくりする経験」も、「子どもと過ごす公園での風景」も、「意に反して寝落ちした次の朝の茫然とした気持ち」も、私にしか書けない文章の材料になるということがわかったから。
そして、その材料を使ってどんな文章を書いてみたいのかという方向性や輪郭といった、そのちょっと先にある目印の見通しが前よりも良くなったから。
「今」の活かし方が腹に落ちて、その結果「今を全力で味える」自分に変わりはじめているのかも・・・。
風を起こし、それを感じること。
それが安心して「今」を生きる私なりの方法だった!
未来への不安も、人間関係の悩みも、過去への後悔も、未来や過去を考えずとにかく「今を生きる」ことが大切!!っていろいろな本に書かれているけれど、それってとても難しいこと。
だって、「今」に対してどんな風が吹いているかがわからず、吹かれるがまま「今」を過ごした結果どんな方向に運ばれてしまうのかが不安でたまらなくて。周りばかりキョロキョロしながら、現在地がわからない「今」に苛立つ・・・10日前までの私はこんな気持ち。共感してくれる人、いるでしょうか?
でも、自分でわずかでも風を起こし、その風を感じ続けること。たとえ目的地は見えなくても、一歩先の霧は晴れていて、そこに自分が進んでいる。そう思うことさえできれば、安心して身を任せて大丈夫なんだな、と思い始めています。
・・・「未来が見えると今に集中できる」って、ちょっと歪んでいるけれど、ね。