取り上げられることに身をゆだねると心が強くなる
1度復活したテレビ、わたしがうっかり電源をオフってしまったら、もっと深い眠りに入ってしまった。
そこで、録画していたあれやこれやをすべて諦め、新たに購入せず習慣を変えることにした。ドラマ大好き、アニメ大好きな私には勇気が必要な決断。
朝起きてリビングに来たら、無意識に押していたテレビのスイッチ、ついているから見てしまい、見始めたから最後まで見続けてしまう時間、そういうものがすべてなくなった。
しーんとしたリビングで「さて何をしよう、何をしたい?」と自分に問うところから朝が始まる。ニュースはスマホのアプリで朝食の支度をしながらながら聞き。意志とは関係なく意識を持っていかれる時間がなくなったら、朝の時間が長くなった。正確にいうと主体的に使える朝の時間が増えた。
2時間かかっていた起きてから仕事体制に入るまでが1時間で済む。生まれた1時間でこうして久しぶりにnoteが書ける。
テレビを見ないという小さな変化だけれど、一日の生活に与える影響は大きい。ということは一ヶ月、一年となると、どれだけの変化を生むか。
心や頭が疲れているときは、ただただ受信したくなる。ただただ何かに溺れていたい。そういうとき、テレビの存在は優しい。受け取るでもなくただぼんやりと流れていく画像と音がゆりかごのようにいろいろな感情や思考を遮断し守ってくれる。
でも、力が戻ってきたら次に進まないといけない。ゆりかごにいることを習慣化してしまい、それが魂が望んでいることから自分を遠ざけていると、ゆりかごが壊れたり、消えたり、取り上げられたりする。
人間関係、お金、時間、健康、ライフワーク、仕事、環境、所有物。
壊れたり、消えたり、取り上げられたりするものはいろいろ。
変化へいざなわれているということ。不便だったり、悲しかったり、困窮したり、苦しかったり、痛かったり。抵抗してしまうけれど、それは優しいガイドが用意してくれた分岐点。無理やり元に戻そうとする執着を捨て、起きるがままに受け入れる。困ったなと思ったら、できることをする。前のやり方に固執するのではなく、新しいやり方をするときなのかもしれない。
あるいは、それではない別のもっとよいものがやってくるのかもしれない。
これをやっていくと、必要なものがシンプルでミニマムになっていく。どうしても捨てられないものだけが残り、もしそれすらも取り上げられるなら、それも差し出す。差し出した後で、それが自分の道であるなら、必ず道が残っているか、新な方向で開く。
わたしたちは失うことを恐れ不安になり、嘆く。でももともと失うものなどない。生まれてからずっと足し続けてきた。生まれてきたときは身体以外なにも持っていなかった。それでも空気、光、温度、色、音、質感。そうしたものを面白がり、味わい、幸せだった。
わたしたちはそういう存在。それだけで幸せになれる強い存在。本質を実感すればするほど強くなる。不安がない人ほど強い人はいない。執着がない心ほど強い心はない。捧げて捧げて、差し出して返す。何も持たない弱い丸裸な存在である自分を受け入れれば受け入れるほど、わたしたちから不安や怖れは消える。