Day 342 欲のゲームを生きる
欲、というとなんだか下品なもの、下等なもの、抑えなくてはいけないもの、持ってはいけないもの、そんなイメージがある。
でも、人が生きるというのは欲を満たしていくことに他ならない。
生理的な欲求から、人生を通して実現したいことまで、行動をするあるいはしないの源は欲だ。
欲望はあまりよい響きではない?欲求はどうだろう。生物として当然なものになってきた?では意欲は?これはむしろあればあるほどよいものに聞こえる。
この実在の世界はいかに欲を満たすかで幸福度、満足度が変わるようにできている。欲はなので、悪者ではないのだ。
そして、欲は未知のものに対しては起こらない。飛行機に乗ったことのない一般の人はいきなりファーストクラスに対してそんなに強い欲求はもちにくい。お金持ちで最初のフライトがファーストクラスという人は別。
空を飛ぶ飛行機を見て、乗りたいという欲をもつ。そして飛行機にエコノミー席で乗ったときはそれだけでワクワクするだろう。乗ったことで初めて座席の狭さを体感として知り、同じ機内にはもっと快適なビジネスクラスやファーストクラスがあることをより身近に感じる。
機上体験のない人にとって、飛行機に乗ることが未知の体験だからファーストクラスは乗れても乗れなくても現状の自分に影響がない。が、一度乗ってしまえばクラスの違いは機上体験の延長上にある。欲の射程内に入る。すると、人によってはどうしてもそれが欲しくなる。さらに一度でもファーストクラスに乗ろうものなら、今度はエコノミーで旅することが苦痛になり、ファーストクラスでの旅が欲にロックオンされる。
不自由を知っているものは、その対極にある自由を欲する。でももとから全く制約がない人は自由すら欲しないだろう。不自由と自由は反対のものではない。一直線上の2点に過ぎない。
健康だった身体が病にかかることで、失った健康体を欲する。健康なときは健康を欲することはない。だってすでに健康だから。健康と罹病は一直線上の2点。
なにかを見たり体験したり聞いたりして知って、それを欲しい、実現したい、体験したいと思うのが理想や夢だ。理想も夢も欲だ。理想や夢は美しく響くが空腹を満たしたいとか、お金を稼ぎたいといった欲と同じだ。貴賤はない。
欲を満たすゲームが私たちの人生だ。だから夢中になって生きるのだ。このドラマに没頭してしまう。
知らないものを欲しいとは思えない。名前も存在もしらない外国の料理を食べたいなどとは思いもしないのと同じ。「名前も存在も知らない料理に出会って味わいたい」という欲もまた、そういう体験ができる、ある、ということを知ったりありありと想像できるからもてる。世界には自分の知らない料理がある、ともし1ミリも知らなかったら、そうは思わない。
自分の枠を広げるためには、コンフォートゾーンから出て、未知の体験をする必要がある。つまり、外に出てはじめて他国の料理があることを知り、ファーストクラスがあることを知るのだ。そしてそれを手に入れたいという欲がわくのだ。
そしてその欲が原動力となって、満たすための活動が始まる。やがて気が付けば器が広がっている。なんと刺激的なプロセス!
欲こそ、自我が設定した人生ゲームのエンジンだ。人生ゲームをリアルゲームとして生きるなら、この欲を真剣に追及し続ければいい。自我のゲームだと知ってしまったのなら、そう知りながらこの実在のゲーム盤上で楽しめばいいのだろう。まだ知っていないから、知ったあとのことは私にはまだ分からないけれど。