復刻版包装紙について
三保原屋本店は静岡の家庭用品専門店。創業は1687年といわれています。
江戸期は「三保原屋 徳兵衛」という名前を代々襲名しており、正確に何代続けているかはわかっていません。
古い資料探しのきっかけ
東京や奈良で働かせていただいていた私が静岡に戻ってきたのが2017年。
家業に戻ってきた時にあった写真や資料も少しありましたが、数に限りがあり、いろいろな様子を知ることが出来ない状況でした。
一方で、三保原屋を老舗として見てくださる方もいるので、古い資料があれば探してみようかなと、重い腰を上げたのが2019年頃でした。
三保原屋で所有している倉庫の一角に、いままで誰も手を付けていない場所がありました。
埃だらけの倉庫を、数日かけて一人で漁っていると・・
昭和20年~30年頃と思われる写真や、祖父の日記が出てきました。祖父は比較的マメな性格で、本を読んだり、登山や釣りをするような人だったそうです。
「紙」で包まれたアルバム
見つけた資料の中には、「紙」で包まれたアルバムが出てきました。
一緒に保管されていた写真を見て、昭和32年のものだと分かりました。
昭和32年は呉服町商店街が全国で初めて”防火帯”としての機能を持つ、共同ビルをオープンさせた年。
静岡の街中はお店や住居が密集していましたが、"昭和15年の静岡大火”と、"昭和20年の静岡大空襲"で火にのまれています。
そこで、街の設計の根本に「防火」という考え方が持ち込まれたのが比較的早かったようです。
ちなみに、呉服町商店街にクロスする形で交わる「青葉公園」も防火帯。
過去には駐車場や、おでん屋台が営業する場所として利用されていましたが、現在は市役所から真っすぐに伸びる公園となっています。
「紙」の正体
祖父の日記と照らし合わせると、アルバムを包んでいた「紙」が、商店街オープンにあわせてつくられた包装紙であることが分かりました。
そこには「文化家庭用品」といった言葉や、当時の電話番号が書かれていました。
包装紙には、幾何学模様が描かれているのですが、
昭和32年の静岡で幾何学模様が、どの程度一般的だったのか・・。
デザイナーと呼ばれる方がいたのか・・。
パソコンがないなかで、どうやってデザインしたのか・・。
考えると、どうなっていたのだろうか・・と思うことばかりでした。
当時の包装紙を社内に持ち帰る
個人的には好きなデザインだったので、帰ってからスタッフに共有をしたところ、スタッフにも喜んでもらえたので、このデザインを復刻させようと決めました。
復刻のお披露目は創業333年にあたる2020年の3月3日としましたが、ちょうど営業が不安定な時期と重なったため、ひっそりと復刻をしました。
昭和32年当時は「これから生活が良くなっていく途中」という時代。
一人一人の利害が異なるなかでも「頑張ろう」という雰囲気が写真からも見えており、とても良い時代だったのかなと思います。
もしも、静岡にお越しになられて、呉服町商店街を歩かれることがあれば、アーケードの上に見えるビルをご覧になってください。
●ビルとビルがつながっていること
●建物がつながっていても、奥行が全然違うお店があること
●バラバラな建築にならないよう、建物の高さをそろえるために「実は最上階がハリボテになっている」ところがあること
などなど、気になると面白いところが沢山でてきます。
オリジナル商品の開発
せっかく復刻した包装紙。直接会うことがなかった7代目の残してくれた道筋をたどって、たどり着いた包装紙。
柄を気に入ってくれる方もいたので、オリジナル商品として手ぬぐいを開発して販売しています。せっかくなので、染めの工程は、遠州織物の産地として有名な、静岡県浜松市にしました。
みなさんの地元にも商店街や、地元のお店は残っているでしょうか。
私は「一度辞めたら、二度とできない」と思い、突然家業を継ぐこととしましたが、いろいろな方々の思い出や、想いがある場所があれば、、久しぶりに歩いてみても面白いかもしれません。