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劇団四季『美女と野獣』感想

前提として、私は大の映画好きであるがゆえに、表現方法が全く異なる演劇をそこまで好きになれずにいた。

映画はどんなささやき声でもちゃんと届くし、編集という名の魔法で東京とブラジル、月と地球を一瞬で繋げることだってできる。CG技術も発達して、嘘を限りなく現実に近づけてみせてくれる。

それに比べて演劇はどうだ。
場面転換するにしても舞台上は狭いため、瞬時に移動できる映画に比べて自由がない。そもそも映画批評において「演劇的な」という言葉は、度々ネガティブな意味合いとして形容される。舞台上で映えるオーバーであからさまな演技は、映画では好まれない。
つくづく映画と演劇は、似てるようで全く異なる二卵性双生児みたいな関係性だと思う。
(とか言ったら演劇好きから「たかが“第7番目”に生まれた映画が、演劇に対して“双子”なんて抜かしたことをよく言うわ」とか怒られそうなので、兄弟程度におさえておこう)

……なのだけど、劇団四季『美女と野獣』を観てから、いままで制限だらけと思っていた演劇が、もしかしてすごく自由で広大なのでは??と思うようになった。


舞台が狭いからこそ想像力でどこまでも遠くに行ける

↑こんなこと、演劇好きからしたら当然のことすぎて笑える。でも映画狂の私からすると新鮮な気づき。

『美女と野獣』の序盤、ベルは町での窮屈な暮らしを嘆く。本だけが自身を外の世界へ連れて行ってくれる唯一のものとして。
このシーンは5分ほどの曲「変わりもののベル」中で歌い上げられ、アニメ映画版『美女と野獣』でも同様に、一曲の中で登場人物および町の説明をまとめて紹介しきるというトンデモ情報量(圧巻)。これをどうやって舞台で表現する??と斜に構えていたが(我ながらこんな客は嫌だ)、狭い舞台上にも関わらず町人たちの住宅、本屋、広場など町の至る場所が代わる代わる現れる。精神的窮屈さが物理的にも伝わる中で、アニメ映画版での情報量を取りこぼすことなく表現。感動を通り越して尊敬の念を抱く。閉鎖的空間だと思っていた場所が実はすごく開けていて、人間(クリエイター)のイマジネーションでどこまでも遠くに行けるということを知って、涙が出た。

余談だがフランスの映画作家ジャック・リヴェットは、映画狂の中の映画狂でありながら、これを十分に心得ていた。自身の作品に何度も舞台(演劇のリハーサル風景)やパリ(都市)を登場させている。
そんな彼の作品の特徴を映画批評家の中条省平は「閉じられた空間の迷宮的無限性」と評していたのを思い出した。中条によると、リヴェットはダイナミックなトラヴェリング(移動撮影)を使用することで、舞台空間そのものは閉じられていながら、映画空間を迷宮的に重層化しており、閉鎖的に閉じられてはいないと論じている。この批評はあくまで映画に寄った内容ではあるが、「閉じられた空間の迷宮的無限性」という逆説は、並外れたイマジネーションを持ってすればどの環境でも通じることのように思う。


光の輝きは肉眼で見てこそ

映画は光の芸術ではあるのだが、舞台装置のライトやそれに照らされた衣装のビジューなどの光については、カメラ越しには限界があると思う。カメラ越しならカラーより白黒の方がチラチラと綺麗に輝くけど、実世界が色に溢れた世界であるがゆえに白黒映画の光はどこか現実離れしている。美しい絵を見ている感じだ。
肉眼で見る光には眩しさが生じる。舞台では、時には直視できないほど強烈な光を放つ演出も多々見られる。強い光を一瞬あててすぐ暗転。もう、私はこれが大好きで。観客の目をくらませることで、より一層真っ暗に見える舞台上に深い余韻を残す。(一幕の最後にこれやられると、心奪われて席から立てなくなる…)

※呪いでキャンドル姿になった野獣の給仕長ルミエールの名は、フランス語で光(リュミエール)を意味する。そんな彼が中心となり歌い踊る「ビー・アワー・ゲスト」は、豪華絢爛という言葉が相応しい。シャンパンから火花が噴き出す演出も楽しかった。アニメ版だと初老くらいに見えるけど、劇団四季版だとプレイボーイの青年という感じでこれがまた魅力的。


愛の手ほどき

愛なしには 生きてゆけぬ——

これは劇団四季『美女と野獣』で、一幕の最後に野獣が独唱する「愛せぬならば」の歌詞。
人を愛し、愛されることだけが野獣にかけられた呪いを解く唯一の方法というだけあって、この作品は終始愛について語られる、いわば愛の手ほどきだ。

はいはい、ディズニーのいう“愛”ね。笑笑
と言いたくなる人もいるだろう。気持ちは分かる。なのに今回、私がこれほど胸を打たれたのは、私にとっての「愛のあり方」のアンサーがまさに『美女と野獣』にあったから。

『美女と野獣』において愛とは、「断固としてあった自分の考えや性格が、他者によって変えられること」である。劇団四季版ではベルの父親モーリスによってはっきりと語られ、伏線回収するように終盤でベルがど直球に歌う「何かが変わった」という愛の定義。…………映画狂の私が、この作品を観てすっかり舞台に魅了されたこの瞬間のことを「愛」と呼ぶのですね────。


そして愛とは、「相手を自由にすること」でもある。序盤のガストンと野獣が、どちらもベルの意思を尊重せず「俺と結婚しろ!」「俺と食事しろ!」と徹底して縛りつけようとするからこそ、終盤でベルを手放す野獣に「これが……愛…………」と我々は咽び泣くこととなる。このシーンが正直いちばん沁みたかもしれない。自分にかけられた呪いを解くことを諦めてでも、ベルを手放すことを選択した。(すっかり“ディズニー化”されてるけど、死に至るほどの愛という意味ではフランス作品らしさが残っている気がしている。笑)


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