『東京都同情塔』(九段理江著)書評|言葉の綾
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「寛容である」ことは良いことで、「不寛容であること」は悪いこと。そう言い切れる人はどのくらいいるだろうか?
2020年に予定されていた東京オリンピックは、世界的なパンデミックの影響により翌年に延期。オリンピックに合わせて建てられた国立競技場は、当初の計画にあったザハ・ハティドのデザインが白紙になり、代わりに隈研吾の案が採用された。しかし作中では、予定通り2020年に東京オリンピックが開催され、ザハ案の国立競技場が実現。そのありえたかもしれない世界には、物語の鍵を握る建築家の牧名沙羅がデザインした、「シンパシータワートーキョー」が建てられた。牧名の強い意思のもと、のちにその塔は「東京都同情塔」という言葉で認知されていく。
「東京都同情塔」は、不遇な環境で育ち、犯罪者にならざるを得なかった人、「ホモ・ミゼラビリス(同情されるべき人)」が暮らす場所だ。緑豊かな新宿御苑のなかに建ち、窓から自然光がたっぷりと入り込む71階建ての塔。塔のなかでは「ホモ・ミゼラビリス」がECサイトで好きな服を買い、誰かを傷つけるような言葉から離れ、70〜71階に用意されたスカイライブラリーで本や雑誌を読みながら悠々自適に暮らす。「犯罪者」がセレブのような暮らしをしている様子に、取材に来たマックス・クラインは日本人の行きすぎた「寛容さ」に苛立ち、塔で働くタクトに感情をぶつけるが、タクトはそれに対して答えはしても喜怒哀楽を見せない。
マックスとタクトの会話はまるでChatGPTとのやり取りのようだ。質問に対して冷静に答えるのみで、怒ったり、傷つけるようなことを言ったり、喜んだりはしない。こちらが感情をぶつけても、それが取り払われて返ってくる。感情を寛容に包み込んでいるようで、無関心にも見えてしまうのだ。「寛容さ」が抱える別の側面が、本作では浮き彫りになってきている気がした。
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