意思表示と罪悪感
以前書いた記事「一泊二日のグループワーク体験」
男性の参加者とペアを組むのが怖くて、拒否してしまったことに罪悪感を抱いたことを、カウンセラーが相手には相手の課題があり、あとどうするかは相手の領域であるから、罪悪感は抱かなくてよいと教えてくれた。
なるほど、そういうものか…と思いながらも、罪悪感は拭い去れずにいた。
そして今、知人男性との関係を『対等ではない』と「自分と向き合う」個人レッスンの先生に見透かされた。
はためには仲の良い関係に見えたかもしれない。
でも自分の中で、どこか違和感があり、窮屈さを感じていた。
自分がどうしたいかを知らずに
自分をないがしろにして
人を持ち上げている
先生のこの表現が、わたしにはぴったりだった。
わたしより自分は知っているという彼の言動が、わたしは嫌だった。
その感情にフタをしていたのだ。自分が思っている以上に、彼に対する怒りがあった。
それでも関係性を壊したくなくて、自分をないがしろにすることで、さげすむことで、対等ではない関係を続けていた。
それに気づいたのだ。
そして「男性の持つ圧」というものに不格好だったかもしれないが、ひるまずNOと意思表示をした。
そこには、グループワークの時に感じた罪悪感は全くなかった。
そして謝る相手は彼ではなく、本当に謝るべき相手は蔑んでしまった自分自身であること。
わたしがこの課題をクリアするために、彼はその役をかってくれたのだ。
その意味で、彼には感謝している。
自分だけの学びではなく、相手にも必ず学びがあり、彼にもクリアしなければならない課題がある。
先生のその言葉に、20年間持ち越した課題をようやくクリアしたと感じた。
それが「こぼれ落ちる」という詩になった。