読書記録⑯『自転しながら公転する』山本文緒著
まだスマホもなかった時代。図書館で文庫本を数冊ずつ借りて、持ち歩いて読むのが娯楽だった頃。私がよく借りていたのは吉本ばななさんや江國香織さん、そして山本文緒さんなどの女性作家の著書ばかりだった。例によって、全く内容を覚えていないけれど、甘いだけじゃない大人の女性の恋や仕事や人生そのものの味を教えてもらった。読んだ後はいつも余韻でふわふわした心地になった。
今回読んだ『自転しながら公転する』の著者、山本文緒さんは2021年に58歳で逝去された。長いうつ病期間を経て、少しずつまた小説やエッセイ本を出版し、本屋大賞や文学賞を受賞していた矢先だった。書店の新刊コーナーで彼女の名前を目にした時(あ、また書き始めたんだ‥‥)となんだか嬉しく思っていた。うつ病になって、ものを書くことができなくなったという経緯は知っていたから。時間ができたらまた読もう。そのくらい軽い気持ちだったけど、訃報を知った時はやはりショックだった。
どこで耳にしたか、或いは目にしたかは忘れた。『自転しながら公転する』という本の存在を知った。誰が書いたのかはわからない。なぜだか妙にタイトルが引っかかって、ネットで調べてみた。山本文緒さんが書かれたものだと知った。これは読もう。そう思っていたことも忘れていた先日、図書館の棚にそのタイトルを発見して手に取った。結構厚みのある本だったけど、借りる以外の選択肢はなかった。この間、西加奈子さんの『くもをさがす』をせっかく見かけたけど、闘病の話に怯んで通り過ぎたら、あれ以来全く図書館で見かけなくなった。人気の本は予約が入っていたり、次々に借り手が現れるからチャンスを逃してはいけない。
前置きが長くなってしまった。ではあらすじから書いていく。
大分端折ったけど、あらすじだけ書くと案外シンプルだ。職場での騒動や恋人の過去、周囲の人間の変化していく様子なども、現実世界に充分存在しうるエピソードだった。では平凡で退屈な物語なのかというと、全く違う。リアルなのだ。きれいごとではない、複雑な人間の感情、内面が、登場人物たちの言葉や仕草や行動からありありと伝わってくる。気がつくと身近にありそうな、その物語にすっかり取り込まれている。
主人公の都は、三十代前半だけれど実家で両親を未だに「パパ」「ママ」呼び。まともに料理をすることもない。プライベートでは、大人っぽさや色気からは遠い、ふわっとしたシルエットの“森ガール”ファッション。車出勤だけど、運転はあまり得意ではない。貫一と喧嘩したり、不安な出来事が起こるたびに泣く。貫一以外の男の子とふらっと二人で出かけて、自分の不安を吐き出してしまうような隙もある。
世間的にはきちんと働いていて、恋愛もできる大人の女性なのに、読者は都に幼さと危うさを感じずにはいられない。けれど都はそんな自分の稚拙さや、自分本意で狭量なところを自覚してもいる。そして時に周囲の人間の言葉にはっとさせられ、考え方を改めたり行動を起こそうとする。その葛藤する姿がいじらしくて嫌いになれない。
一方の貫一は、都よりも一見落ち着いていて大人びて見える。元ヤンだけあって、ぶっきらぼうで人に媚びるところがない。読書が好きで、知識も豊富。高齢の父親が施設にいて、姉と折半で月々の施設料を支払い、狭いボロアパートで一人暮らしをしている。震災時、ボランティア活動をしていた経験もある。車の運転も料理も上手い。
しかし中卒という肩書きに劣等感を持っていて、都との恋愛も、その先の同棲、結婚には消極的な様子。仕事やお金に対してもあまり野心は感じられない。読書の知識から蘊蓄を話すことはあっても、自分のことをペラペラ喋るタイプではない。
堂々としていてメンタルが安定していそうな貫一だが、どこか逃げ腰に思える時がある。そして弱さも見えてくる。その情けなさは、かえって勘一を実在する男のように浮き彫りにしている。
決して順風満帆な恋愛じゃない。重苦しい空気やヒヤッとする場面に、読者も気持ちが重たくなるはずだ。例えば都が貫一に頬を張られるシーン。手加減は充分されている。貫一が思わず手を出してしまった気持ちもわかった。その後、一人部屋に取り残される都。ポロポロ泣いて、なんであんなこと言ってしまったのか、と後悔してみたり、いや、私は悪くないと葛藤する。まるで読んでいるこちらも冷や水を浴びせられたような、いたたまれない気持ちになった。
またある時は、逆に都が貫一を蹴ったり突き飛ばしたりする。貫一は反撃しない。この時の都は頭の中がクリアで、自分はこの先一人でもいいと腹を括っていた。そして別れを覚悟して貫一に放った言葉がカッコよかった。引用しておく。
いつも飄々としていた貫一が、怯えたような表情になる。そして本心からの言葉を口にする。
暴力や喧嘩なんてない方がいい。できれば人を傷つけたくないし、自分だって傷つきたくないはずだ。でもこうして弱さやずるさや醜さを曝け出し合って、固く結ばれていくものがあるなら、いい子ぶって恐れて表面だけで構築していく関係より何百倍も価値がある。
恋愛ってこんなふうに甘いだけじゃなくて、複雑な感情を伴う苦しいもの。でもきらっと光る瞬間があるから、やっぱり素敵なものでもある。ままごとじゃない、生々しい二人の関係構築のプロセスをまざまざと見せつけられた。
もちろん生きていれば、恋愛だけじゃなく家族や職場での人間関係、友人知人との付き合いもある。なかなか体調の良くならない暗い表情の母親。古い価値観でどこか娘を縛りつけてくるような父親。そんな家から解放されたいと思いながらも、ぬるま湯の環境に依存している都。両親はどんどん年老いていくし、いつ大病を患ってもおかしくない。恋人に結婚できるような経済力はなさそうだし、結婚のことを考えているようにも思えない。
職場では痴漢まがいなセクハラの被害に遭う。上司が不安定なせいで、アルバイトの子たちに不満が募る。立場的にもなるべく人と衝突したくない都は、板挟みになって苦しむ。プライベートのゴタゴタも混ざって内面は不安でいっぱい。順調そうに見える友人たちにも嫉妬してしまう。
上手くいかないことが立て続けに起こるこんな展開、誰もが一度は経験していると思う。
どうやって抜け出せばいいのか。夢中でもがいていたら自然と抜け出せるものなのか。どうするのが正解なのか、誰にもわからない。それでも目の前にあることを淡々とこなしていれば、生きることを諦めなければいつの間にか日常が戻ってくる。いいことにも気づけるようになる。
波のように繰り返される感情のアップダウン。波は止められない。飲み込まれないように乗りこなすしかない。都が見ている世界を味わいながら、そんなふうに思った。
ところでこの物語、最初と最後の数ページの時間軸だけ本編と違う。読書記録を書くために最初のページに戻った時、一瞬ここはどこだろうと呆気に取られてしまう自分がいた。そして数行読み、あっと思った。かちっと全てが繋がった。
そして読んでいた期間はほんの数日間だったのに、ずいぶん長く旅をしてきて、出発地点に戻ってきたような感覚に陥った。まだ旅の余韻が抜けない。ことあるごとに思い出すかもしれない。
読書記録を書く気のない、読んでいく側から忘れてしまうような読み方も気楽でいい。BGMを流すような読み方だ。でも、少し重たいものが胸に残っても、一行一行を味わいながらじっくり精読する読み方もやっぱりいい。実際には体験していないことだけど、自分の血肉になってくれる感じがする。
山本文緒さんの著書をまた読みたくなった。気になった方はぜひ『自転しながら公転する』を読んでみてほしい。もちろん他の著書も。自信を持って勧められる。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。