読書記録⑲『去年の雪』江國香織著
十代の終わりか二十代の初めか、とにかく読書が楽しいと思えるようになってきた頃。私は一度ハマったら、同じ人の本ばかりを立て続けに読んでいたと思う。その頃の読書は、ちゃんと咀嚼して消化するようなやり方ではなかったけれど。江國さんの本も、その時期に貪るように読みふけった記憶がある。
『号泣する準備はできていた』『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』『落下する夕方』『神様のボート』。タイトルを目でなぞるだけでうっとりした。
せっかく読書記録をつけているわけだし、そろそろ江國作品にもまた手を出してみよう。そう思い、嬉々として手に取った今回の『去年の雪』。読み進めていくうちに想定外のことに遭遇していく。
前回の記事で少し触れたが、まず驚いたのは登場人物の多さである。主人公が複数人いて、視点が段落や章ごとに変わる物語は別に珍しくない。しかし『去年の雪』は、数行から数ページで次々と視点が移り変わっていき、一向に同一人物に戻ってくる気配がない。何人か稀に数回同一人物の視点になることもあったが、著者による扱いは、あくまで他の人物たちと同等に感じた。
移り変わった先の人物は、その前後で出てきた人物たちの関係者であることがほとんど。最初は紙に図を書いて、関係性やら事象、時期を整理しようかと思ったが、登場人物が十人を超えたあたりで諦めた。そしてネットで登場人物の人数を調べようと検索をかけてみた。
最初に「あれ?」と思ったのは、タイトルにある“去年”の読み方が“こぞ”であること。でもそれにはなんとなく納得がいった。なぜなら変わる場面の中に、平安時代が混じるから。“平安時代”というのは、牛車らしき乗り物や、手紙を送り合いひっそりと逢瀬を重ねる恋愛の仕方から推測したもの。(※『去年の雪』についてのレビューや考察までネットで覗いてしまうと、自分で書くものに影響がありそうで読んでいないので、正確さに欠けることをご了承ください。)とにかく古典的な読み方をすることは腑に落ちた。
さて問題の登場人物の人数だが、“100人を超える”との検索結果だった。
一体どう読めばいいのだろう。ワンシーンごとにぶつ切りで、視点が次々と移り変わっていく物語を。最初は「あれ、この女性の苗字‥‥もしかしてちょっと前に出てきた不倫している男性の妻なのでは?」と気になっては数ページ戻り、「この整骨院の男性は、レストランで中高年女性を接待していたコンパニオンではないか」と確かめにまたページを遡り、と繰り返していた。しかしキリがない。どこに付箋を貼ればいいのかも、わからなくなっていった。頭を抱えたくなるとはこういうことか。
そこで糸がぷつんと切れるように、ああ、もう音楽を聴くように読むことを楽しめばいいや、と結論づけた。ミステリー小説ではないのだ。眉間に皺を寄せて読むなんてナンセンスだ。
あらすじは書けそうもない。主な場面は現代で、時折平安時代も混じる。昭和の時代も混ざっていたかもしれない。奇妙なのはそれぞれの時代が、時々バグを起こしたように別の時代にわずかに干渉すること。
例えば現代のマニキュアやアイスのあたり棒が、平安時代にカラスによってもたらされたり。同じ家の中から、違う時代の住人が出てきたり。現代の少女の歌声が、平安時代の女性の耳元で聞こえたり。時間の流れもお構いなしだ。そもそも過去から現在、未来へと時間が流れているという概念が正しいのかもわからなくなる。まるで同時に、今も過去が存在しているかのような描写がいくつもある。縁があり、何か意味があるのか。考えても仕方がないと思いながら、寄せては返す波の中に放り込まれたように、翻弄されながら読み続けた。
この本を読む上で外せない要素の一つに、“死者”の存在がある。死者は複数人出てくるが、何度か同一人物の視点も登場する。彼らは静かな佇まいで、気がつくと場所を変えている。歩いたり交通機関を利用することもなく。飛ぶような描写もなく。ただその場所にいる。浜辺や遊園地や風呂場や土間に。現代の死者が平安時代に出現することもある。その姿を見られる人は限られているようだ。
ここに登場する死者たちからは、生前の後悔や怨念、執着などを感じられない。そして死者になりたての者と、大分漂ってきた者とで、その在り方にも差があるようだった。自分の名前や家族、生い立ちや死因などを自覚しており、あれこれと人間らしい思考を巡らせる者。もうあらゆるこだわりが無くなり、ただ冷たさや硬さ、振動などの感覚を味わう者。後者の存在はもう名前すらなく“それ”と記されていた。
穏やかに世界に溶けて還っていく。そんな印象だった。
つかみどころがないように思える物語だが、うんと薄めたジュースのようにぼんやりとした味がするわけではない。随分前でうろ覚えだが、江國さんが何かのインタビューで「ディテールが大事」ということを答えていた気がする。実際そうなのだと思う。話の筋も大事だが、なぜ江國作品が魅力的なのかといえば、その一つは細部にこだわりがあるからではないだろうか。
それは解像度が高いことだと思う。例えば女の子の服装一つとっても、江國さんはここまで描写する。
一瞬しか登場しない少女にも関わらず、全身のコーディネートを、まるで見てきたかのように描写している。この場合はただ「季節外れの格好をした少女」だったり「周りから浮いている」ということを書き表したかったのだと思う。でも江國さんは事実の伝達だけでは満足しない。ちゃんと読者にも目撃させる。
小説の世界ではもしかしたら風景描写一つとっても、感情表現のためだったり、その後に起こることを示唆するような表現を多用しなければならないのかもしれない。いわゆる「だから何?」と言われるような描写は、軽視されがちなのではないか、と感じる。でも江國さんはそんなこと意に介さず、果敢に絵を描くように物語を淡々と紡ぎ続ける。私にはそんなふうに感じられてならない。だから彼女の描く作品は、まるで自分の記憶みたいに時に生々しくて、美しく魅力的なのだと思う。
事故に遭い、現在進行形で死につつある者。車中で不倫をする女性。妻の気持ちを理解できず、夫婦関係に辟易している男性。湯屋を出て、姉に飴を買ってもらいながら帰路に着く妹。英会話教室に通う退職後の夫。時空を超えた吹き玉(シャボン玉)を目撃する少女。おそらくもう死んでしまっていて、古い家で幻想の中にいる黒猫。同性恋愛をする男性たち。数十年ぶりに訪れた映画館を肌に合わないと感じ、足を踏み入れることなく引き返す老婆。図書館で子供時代に没頭した、恐竜図鑑や乗り物図鑑を思い出す死者。かつてフランスで熱烈な恋をしていた自分を他人のように思い返す、今は五人の子をもつ主婦。同級生に友人顔でカツアゲされ続けている、気弱な女の子。孫が殺人を犯し、犯罪者となってしまったことに心を痛める老人。
その登場人物たち一人一人に、ほぼフルネームで名前が与えられている。時代も性別も年齢も立場も、全く違う存在たち。
もし私の記憶が正しかったらタイトルにもなっている“雪”は、作中登場しなかった。或いは登場していたとしても記憶に残らないくらい、一瞬だったのかもしれない。でも“雪”の印象はせつなく、降り積もることがあってもすぐに消えてしまうから、この本全体を覆う雰囲気に合っていると思った。
最後に、印象に残った箇所を引用したい。これは「言葉ってどこに行くんだろう」と、問いかけをした女子高生の言葉。訊かれたもう一方の女子高生は「意味がわならない」と答えている。そこに続くセリフだ。
こんなこと、考えたこともなかった。でも“言霊”とも言われるように、言葉には力が宿るとは思う。口語でも文語でも。平仮名やカタカナ、漢字の入り混じった日本語が、私は好きだ。
ちょっと話がずれてしまったが、私は今回『去年の雪』の文面をなぞりながら、“読む”ではなく“観賞”していたのだと思う。江國さんの描く物語世界は、アートを感じさせる。なぜこんなに複雑で、色づいた美しい世界を描けるのだろう。ため息しか出ない。
読む人にしかわからない、この世界観。体験してみたい方はぜひ『去年の雪』を読んでみてほしい。研究が好きな方は、二度、三度と繰り返し読んでみるのもいいと思う。噛めば噛むほど、味わい深くなる読書体験ができるはずだ。
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