9月入学を考える:教育のデジタル化は「目的」ではない
高校を卒業してイギリスに留学した当時の私は、4月から9月までのモラトリアムをとてももどかしく思っていました。イギリスに留学する場合、大学に行く前にファウンデーションコースを1年間受講するのが普通です。大学は3年なので、結果的に4年で大学を卒業できるのは日本と同じなのですが、半年遅れになるいうのが腑に落ちなかったですね。
しかも当時は、秋採用が少し浸透し始めたくらいで、(今もまだまだだけど)春の一括採用が全盛期。半年遅れで卒業、1年遅れで就職になります。だから、世界標準と足並みを合わせて9月入学になるのなら大歓迎!と言いたいところではあるのですが、コロナをキッカケとして9月入学をスタートさせるのは違うんじゃないだろうかと思うわけです。
私には、9月入学を、教育のデジタル化が実現できないことの言い訳とそれに対する不満をそらすために使っているようにしか聞こえないのです。今まで4月からやってきたことを、ただ9月にずらすだけのことに何の意味があるのでしょうか。教育の仕組みそのものを根本的に見直すタイミングが来ているのは明白です。年度の開始時期なんて些細な問題です。その変更に係る諸業務を文科省、教育委員会、学校が負うのだとすれば、その労力と時間と費用は教育の質の向上に使われるべきです。教育のデジタル化は目的ではありません。教育のデジタル化は教育の質の向上という目的を実現するための手段の一つにすぎません。他業種における成功例をみても、情報の伝達にオンラインツールを用いることは、コミュニケーションの迅速化、情報管理の簡便化、ペーパーレス化が促進され、教師の仕事効率の向上に繋がるだろうことは明白です。また、オンライン授業という新しい授業形態の導入は、直接的に顔を合わせなくてもグループで共に学ぶ場を提供してくれます。私は、オンライン授業があれば学校は不要だとは思いません。一方で、絶対に学校で学ぶべきだとも思いません。どのように学ぶべきかを選べる時代が来て欲しいと思っています。そして、子ども自身が何をどう学ぶべきかを自ら決められるようになることは、彼ら自身の糧となり、社会の糧となると信じています。
文科省は5月中に今後の方針を打ち出すようです。今後どんな災害や疫病が発生するかは誰にも分かりません。ただ、今までと同じでいいという考えではもういられないというのは明らかです。どんな誰にも平等に学びの機会を提供することが学校教育の役割であるとするならば、議論すべきは9月入学の是非ではないと思います。
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