クラシック俳優ミニ図鑑|ジーン・ケリー
ジーン・ケリー
生年月日 1912年8月23日
出生地 アメリカ合衆国 ペンシルベニア州ピッツバーグ
ケリーは7歳の頃から兄弟と共にダンス・スクールに通い始めるが、近所の子供たちから「女々しい」といじめに遭う。
一時的にダンスを辞めるが、いじめをきっかけにダンスに対する意識が大きく変わる。もともとスポーツ好きだったケリーは、ダンスは女々しいものではなくスポーツである、と確固たる意志を持ち続けることになる。
15歳の頃に女性にモテるという理由でダンスを再開。学校でもダンスが上手なことで知られていたという。
スポーツやダンスを得意とする一方で、成績も優秀だった。ペンシルベニア州立大学ではジャーナリズムを専攻した。しかし、経済的理由などが原因で退学を決意。1931年にピッツバーグ大学経済部に入学し、1933年に卒業した。
大学時代からダンスコンテストに出場して賞金を稼ぎ、ダンススキルをみるみるうちに磨いていった。ケリーの母親はダンススタジオの経営をスタートさせ、ケリーはダンス講師となる。
1938年、さらなる飛躍を目指しニューヨークへ行き、ブロードウェイのダンサーとして活躍。ケリーのブロードウェイでの活躍が評判を呼び、1941年にMGM入りを果たすことになる。
1942年、ケリーにとって初のミュージカル映画「フォー・ミー・アンド・マイ・ギャル」の出演が決定する。
当時大人気だったジュディ・ガーランドと出演し、映画自体は大ヒットするもののB級ミュージカル映画への出演が続いた。
ところが、コロンビア社に貸し出されて出演した「カバーガール(1944)」が大ヒット。MGMでケリーの才能は認められ、監督・脚本・振付をこなすようになり、看板スターとして大活躍をしていくことになる。
ケリーが主演しているミュージカル映画は、日本でも愛され続けている作品が多い。例えば、「雨に唄えば」「錨を上げて」「踊る大紐育」「巴里のアメリカ人」などが挙げられるだろう。
ダイナミックかつ記憶に焼き付くケリーのダンスシーンは見物である。
ジーン・ケリーといえば、雨の中で満面の笑みで歌い踊るシーンが最も有名である。
豪華な衣装を着たダンサーや、派手なセットはない。シンプルに「日常感」を全面的に出してきている。
人気の少ない歩道で、雨に打たれながら幸せを嚙みしめるドン(ケリーの役名)に対し、誰もが共感しやすいシーンを作り上げている。
また、いつものスポーツマンのようなケリーと異なるのも面白いポイントだ。アクロバティックなダンスではなく、心躍る気持ちを体で表現し、とても生命力溢れるワンシーンとなった。
この他にも数多くの名シーンを残しファンを虜にしたが、1957年公開の「魅惑の巴里」の出演を最後にMGM社から離れることになる。俳優・監督活動は継続し、「ロシュフォールの恋人たち(1966)」や「ザナドゥ(1980)」などのミュージカル映画に出演した。
1976年公開の「ザッツ・エンタテインメント PART2」では、ケリーと共にMGM看板スターとして活躍したフレッド・アステアと2度目の共演を果たし、ダンスを披露した。
1994年公開の「ザッツ・エンタテインメントPART3」を最後に俳優業を引退。1996年2月2日に83歳で亡くなった。
ジーン・ケリーの代表作
フォー・ミー・アンド・マイ・ギャル(1942)
カバーガール(1944)
錨を上げて(1945)
踊る海賊(1948)
踊る大紐育(1949)
私を野球につれてって(1949)
巴里のアメリカ人(1951)
雨に唄えば(1952)
ブリガドーン(1954)
ロシュフォールの恋人たち(1966)
ザナドゥ(1980)