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双極症であること➂
気負わずに飄々と生きていきたい。せめて寛解のときぐらいはそうでありたい。軽快なステップではなうたを歌いながら、すれ違う人に挨拶したり声を掛け合ったりしながら、常に笑顔という訳にはいかないだろうけれど、眉間にしわを寄せて深刻ぶって、人と会話するときでも「でもね、それってさ」と否定で返すような、そういう人には絶対になりたくない。
仕事やら人付き合いやらで人前に出ているときは、辛い日でもつらいことを顔に出したくない。世の中は徐々にではあるけれども、頑張らないでつらいときはつらいように振舞ってもいいんだよ、と言ってもらえる風潮になってきたと思う。でも、だからといってどうなの?とも思う。歯を食いしばりすぎて歯ぐきから血が出るくらいまで頑張る必要はないけど、ちょっとは頑張ろうよ、と自分に対して思う。せめて頑張ってるふりくらいはしようよ、って自分に対して思う。
そうは言っても、どれだけ頑張っても自力で歩行できない車椅子の方がいるのと同じように、精神障がい者にもどれだけ頑張っても出来ないことがある。ただそれが外からは見えないだけに、やれるのに“やらないだけ”だとか、“さぼっている”というように見られてしまいがちだ。この点精神障がい者はどうにも分が悪い。でも外野からいくら言われたって、やらないのではなくて出来ないので、私は、努力をしない怠け者というふうに思われるのが一番つらい。
鬱のときは仕方がない。誰に何と言われようと何もできない。こういうときは思いっきりめそめそしてやるぐらいの気持ちで鬱に対峙してやることにしている。一週間以上風呂にも入らず下着も替えずなんていうことだってあった。一か月で5kg痩せてしまったことだってあった。でも私はいまこうして無事に生きている。
私も双極性障害なので、上がっているときも下がっているときも、それがどういう状態なのかはもちろん知っている。数えきれないほどの失敗だってしてきた。
何人かの友人に酷い仕打ちをして、傷つけた。私のもとから去っていった友人たち。そして残ったのは私に対する憎悪と軽蔑心。恥をかいているのに気づこうとせず平気でいて、周囲に悪い印象ばかりをあたえていたことにも全く気づいていなかった。いろんな方々にたくさんの迷惑をかけた。ここにはとても書けない破廉恥なことだってたくさんしてきた。
いまもこの地球上のどこかで私のことを「学生の時にさ、とんでもない食わせ物の女がいたんだよ、その女のせいでえらい目にあったわ」とか「あいつだけはマジで許せねえ」とか言ってる方々も間違いなくいる。こういう方達のことを思うと恥ずかしさや申し訳無さで叫び声をあげてしまいそうになる。
後悔したって仕方ないと思うようにする。でもそれは私には無理だと悟った。どんなにつらくても自らにムチを打ちながら罪を抱えて生きていくしかないと思う。辛いけれど、仕方がない。でも、もし可能であれば、誰も傷つけていないような、笑いに変えることが出来る失敗なら、笑い話にしてやろう。そう思えたら少しだけでも気楽になれるような気がする。
私は双極性障害のⅡ型です。私の特性はこれこれこうです、という具合に自分で自分にレッテルを貼りすぎないようにしないといけないなと思うようになった。そうすると本当は出来る筈のことまで出来ないと思い込んでしまったり、やろうとしなくなるような気がする。就労移行支援事業所に通っていた時にこういう人を何人かみかけた。出来るかもしれないのに私の特性はこうだからと言いだして、はなからやろうとしないのも勿体ないと思ったし、周りの支援者もあなたはこうだから、ああだからと言ってその人の可能性をつぶしていることもあるのではないかと思った。もちろん精神障がい者にはどれだけ頑張っても出来ないことだってあるので無理強いはしてはいけない。
障がい者だから出来ないんですか?やろうとしていないだけじゃないんですか?そう自分に問いかける習慣をつけたいといまは思っている。