自称・先生
もうやることはないなと思ってから一年、私は再び「先生」と呼ばれる仕事についています。
定職につくことなく、バイトを「仕事」と言えず、自分のことを「社会人」と呼べない生活を送るなか知ったことがあります。資格がなくても「先生」になれるということです。
昨日までニートだった人が「先生」になる。
上手く言えば縁があって、実際はコネとタイミングでバイトが決まったのが3ヶ月前、私はまた子供をお世話しています。
本当にしんどい。楽だけど正気に返るとしんどくなる。この仕事向いてるかもと思うたびに、血は抗えないのかとショックを受ける。パパもおじいちゃんも先生をしていました。お母さんは先生になるために大学に行って、その間に私を身篭って大学を辞めました。お母さんはパパの教え子です。
ハンデや事情を抱えた子供たちが集まる場所だからいろいろ考えてしまう。子供、親、金銭、病、家庭環境。生活においてどこか息苦しさを感じている(かもしれない)子供たちに、家庭でも学校でもないもう一つの居場所を提供する場なのに、子供たち一人ひとりに対するフィルターを外すことができない自分に嫌気が差します。
皆が皆に不満を抱えて働いてる。その場にいないAさんの愚痴を話す。Aさんが来てBさんがいなくなったら次はBさんのうわさ話を皆でする。みひろちゃんは世の中に希望があると思ってたのでショックでした。そんなに不満があるならさっさと離れて新しい場所で輝けばいいのにって思うけど多分そういう問題じゃない。大人になればなるほどそうする体力もないんだろうなと悲しくなります。
みひろちゃんはそれでも皆に好かれようとしています。あらゆることに他人からの見られ方を意識して、どうしたら気に入られるか、気が利くと思われるかを考える。寝ても休んでも疲れが取れない原因はこれかもしれない。最近は好かれなくてもいいからせめて役に立たないとは思われないように…までハードルが下がりました。
取り繕おうとすることだけが上手くなっていく。実際に取り繕えているかはわかりません。
誰でもが先生になれる場だから、職場のえらい人さえも私のことを「先生」と呼びます。親より年の離れた人でも「先生」って呼んでくる。まともな若い人が、こんな時期にこんなバイトしてません。まともじゃないからここにいます。まともじゃないのにまるでまともみたいにする場だから、仕事中の一人称は「先生」です。他の先生と話してるときに自分のこと「先生」って言いそうになって飲み込んだこと何回かある。これはただお馬鹿なだけ。最近マジで脳みそが縮んでる。
明日も働くのに、こんな時間にこんなことしてる。他人に不満を覚えて自分を守る、そんな自分に辟易する。それを繰り返しながら私は子供の前でおどけてみたり、ゲームで手加減してあげたりする。オセロは本当に負けるけど。オセロの勝ち方知りたい。けど大人なのでわざわざ勉強する体力もなく酒飲んで寝る。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?