「いま」の音楽を考えるーダルムシュタットでの経験を通してー
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さて(実質)「op.1」となる記事、どの過去Tweetから深めていこうかしらと
遡っていたところ、懐かしい写真と再会した。
2018年、ピアノクラスの受講生として参加させていただいた
ダルムシュタット夏季現代音楽講習会。
せっかくの機会だから、ピアノクラスのことについて、そして
ダルムシュタットという街で何を感じたのか、思い出せる限り記していく。
※なお、この記事の情報は2018年当時のものです。受講を考えていらっしゃる方は、今一度ご自身で最新の情報をご確認くださるようお願いいたします。
1. そもそもダルムシュタット夏季現代音楽講習会って?
ダルムシュタット夏季現代音楽講習会とは、ま、現代音楽好きが集まるお祭りだと思っていただければよい。現在は2年に1回行われている(2020年に予定されていだが、この状勢により2021年に延期)。今この時代を生きる作曲家たち、そしてバリバリの現役演奏家が、教えのためにダルムシュタットに集まり、作曲のみならず様々な楽器の受講生が世界中からやってくる。期間中は様々な形態のコンサートが行われ、現代音楽にたっぷり浸かることができる。
講習会自体の歴史は1946年に遡る。メシアン、シュトックハウゼン、ブーレーズなども、ここで音楽の議論をしたことは、言及するまでもないだろう。
2. ピアノクラスを受講するためには
もしピアノクラスを受講したいと思ったのなら。ピアノクラスは定員10名。受講可能かどうかは、事前に提出した資料の審査結果次第だ。必要なものは、ビオグラフィー、講習会に持ってくるレパートリーリスト(後述参照)、2作品の録音(録画)。例年3月末〜4月頭が締切なので、慌てないように準備しておきたい。
3. 講習会の様子〜ピアノクラス編
いざダルムシュタットへ。
私が参加した2018年のピアノクラスは、ドイツ1、スペイン2、イタリア1、スイス1、ロシア1、シンガポール1、台湾1、韓国1、そして日本から私、という国構成。男女比は1:9であった。
ピアノクラスが何から始まるかと言ったら、「内部奏法レクチャー」だ。調律師さん立ち会いのもと、自分が講習会中弾く予定の曲で内部奏法があれば、その奏法をしてもよいか、どのようなことに気をつけなければならないか、教えていただく。ピアノクラスを教えるニコラス・ホッジズ先生(以下、ニック先生)は、その手の経験が非常に豊富でいらっしゃるので、知ってそうで知らないこと(弦に何か挟むときペダルをどう扱うか、フレームのどの位置を叩くと危険か、など)を学ぶことができる。
その後、ピアノクラス全体のグループレッスンが始まる。ほぼ毎日。私が参加した2018年の記憶が正しければ、受講生は、
①ダルムシュタットに教えにきている作曲家の作品
②出身国、あるいは居住国の若い作曲家によって書かれた作品
を必ず持ってこなければならない(2020年は、これに加え、いわゆる「管理された偶然性」作品を持ってくるよう要項に書かれているようだ)。
私は①Rebecca Sauders : Shadow②小倉美春(自作) : Labyrintheに加えて、
Stockhausen : Klavierstück X とHolliger : Partitaを準備した。
基本的に演奏者が弾いた後、先生がコメントを残す形式ではあるが、自分の演奏曲について紹介したり、クラス内でディスカッションしたりすることも多い。ニック先生のクラスは、殊の外「言語化すること」を求められ、講習会中は、前日に行われた演奏会の感想を述べる時間がほぼ毎日設けられた。
ニック先生の凄いところは、彼にとってはじめましての譜面でも、まるで作曲家の視点で見、正確なコメントをくださることだ。特に自作を見ていただいた際、作曲した自分自身も忘れてしまっていたような小さな対位法を、一回通しただけで指摘してくださったのには驚いた(その話をルーカス・フェルス(チェリスト。私が現在在籍しているフランクフルト音楽・舞台芸術大学の教授、かつあのアルディッティ弦楽四重奏団のメンバー)にしたら、教える立場なら当然のことだよ、と言われてしまったのだけれど)。
2018年には、この基本のクラスの他に、作曲科との協同クラス「ピアノ作品を書く」があった。コーチはニック先生に加えて、なんとあの作曲家ブライアン・ファーニホウ。ダルムシュタット到着後、そのクラスを受講している作曲家さんたちと会い、既に仕上がっている彼らの作品の中から、自分が誰と組むか(どの曲を演奏するか)決める。私が組んだのはDamjan Jovicinというロシアからの受講生。こちらの作品を演奏した。
もちろん、譜読みが出来るのは譜面をいただいた後、つまり講習会が始まってから。しかし協同クラスもすぐに始まるので、1日か2日である程度仕上げなければならない。演奏者としてはまさに「追い込み」の訓練である。
自分の担当曲以外にも、多くの面白い作品に出会えた。カップをピアノに打ちつける曲(とてもいい音がするのだが、どのようにして楽器へのダメージを抑えるかが議題となった)、色が付いた譜面の曲、火花が散るような曲、など。
特筆すべきは、ファーニホウが教えている姿を間近で見れたことだろう。彼はなんといっても、もんのすごいソルフェージュ能力なのである。少し連符が込み入った受講生の曲でも、難なく初見で口三味線ができる。あるとき、「ファーニホウは自分の曲全部「歌える」んだよ」と聞いて、あんなに複雑なリズムを「歌える」のか…?と思ったものだが、実際目にして、ああ、きっと歌えるんだろうな、と納得した。そして記譜への意識の高さ。受講生の譜面を見て、「ここはこうしたらもっと弾きやすくなるんじゃない」とさささっと直す。その結果が、もう素晴らしく明瞭なのだ。ファーニホウの楽譜は、一度開いたらすぐ閉じたくなってしまうようなところがあるのは否めないが、けっしていたずらに複雑にしているのでなく、彼にとっては「歌える」「演奏できる」範囲内なのだろう(あるいは、彼の脳内はもっともっとカオスに音が飛び交っているのかもしれない)。
さて、ピアノ科なら気になる、練習室事情。クラスレッスンが行われるのと同じ建物に、練習室の並びがある。グランドがある部屋もいくつかあるが、使用できるのは1日に1-2時間の心積もりが良いだろう。その中で自分のレパートリー、ダルムシュタット到着後に読む新曲、それらをさらうと考えると、自分のレパートリーは、「さらわなくても本番に出せる」レベルに仕上げておくのが望ましい。
(とある練習室の様子)
4. 講習会の様子〜室内楽編
以上のピアノクラスやそれに紐付けられた協同クラスとは別に、室内楽を取ることもできた。まず作曲受講生に向けて、室内楽作品の募集がかかる。そこで選ばれた作品たちが発表され、自分の楽器があれば希望して担当できる。私が担当したのは、韓国からの作曲受講生、Eunhye Jooさんの"Plotting"。
(※こちらの演奏がダルムシュタットのものかどうか、定かではない。
自分の音のような気もするし、そうでない気もする。)
ご一緒させていただいたのが、クラリネットのJohannes Feuchterさんと、チェロの山澤慧さん。当時大学4年生だった私としたら、あの山澤さんと弾かせていただけるなんて、それだけでトンデモナイことだったのだ。
室内楽は、作品につき一人コーチがつく。私たちは作曲家かつコントラバス奏者であるUli Fussenegger先生のもとで、3回ほどの合わせをした後、実際にコンサートで演奏する。
Fussenegger先生のレッスンでは、数回のリハーサルで如何に指揮者なしで合わせられるようになるか、の意識が強かった。最初は先生の指揮のもとで何が起こっているのかを把握し、書かれてあることとと耳をリンクさせる。その後指揮なしでどのようにマネージしていけばよいか、皆で知恵を絞る。今まで噂には聞いていた「誰かが身体のどこかで指揮の身振りを見せながら演奏していく」技を、初めて実際に体験した作品でもあった(=アルディッティ弦楽四重奏団やジャック弦楽四重奏団が、難しい現代音楽作品をなぜ合わせられるかと言ったら、このテクニックに依っているからである。演奏時の彼らの動きに注目してほしい)。
もう一つ、この室内楽セッションで忘れがたいことがある。いくつかの基本的な内部奏法が出てくるのだが、リハーサル中クラリネットの子に「美春、君はその内部奏法の音で満足してるの?」と言われたことだ。それまで内部奏法は、どちらかと言えば「身体的なもの」として扱うよう心がけていた私だったが、内部奏法だろうが普通の打鍵だろうが、そこに「音質」を求めるプロセスが存在するのかも、と薄々気付き始めることになる(そしてフランクフルト留学後、師匠にその点をみっちり仕込まれるのは、また別のおはなし)。
(そう、演奏会場は体育館だったりするのです。みんないい笑顔。)
5. 講習会の様子〜演奏会編
「聴く」立場でも、「弾く」立場でも、演奏会が充実しているのがダルムシュタットだ。まずは「聴く」立場から。
こちらが当時の公式パンフレット。
この中にあるだけでも、2週間で約80の演奏会やレクチャーがある。演奏クラスを受講していると、全てに顔を出せる訳ではないのが少し残念ではあるが、足を運べたいくつかのうち、特に記憶に残っているものを記していく。
1. オープニングコンサート。我らがニック先生が、Simon Steen-Andersenのピアノ協奏曲を演奏した。何かと話題なこの作品、まずは一度観ていただきたい。
大人数が集まって、むせ返るほど蒸し蒸しした体育館で、「あぁ、私はダルムシュタットに来てしまったんだなぁ」と思ったのをよく覚えている。
2. 講習会には"Kranichstein Music Prize"なるものがある。作曲受講生と、演奏受講生の中から各回数名、受賞の対象となる。2016年の受賞者、トロンボーンのWeston Olenckiさんのミニコンサートは、ただただ凄かった。トロンボーンってこんな音するんだ、という驚きはもちろん、楽器がもう身体の一部となっていて、様々な特殊奏法が「そうされて然るべき」と聴こえるのだ。凄い人がたくさんいるんだなぁと、衝撃を受けた。
3. Lisa Limのソプラノ、3人の打楽器奏者、群衆のための"Atlas of the sky"。
こちらもぜひ、まずは観ていただきたい。
1時間近い作品だったが、全くもって飽きなかった。久しぶりに共感できる作品と出会えた!と終演後もしばらく興奮がおさまらなかった(そして、それを一定数の聴衆が感じたのが、この作品の凄さでもあると思う)。ライブで体験した約1年後に感想を記したTweetを見つけた。
4. 忘れてはならないのは、最終日に2回演奏された、Stockhausen : Stimmungであろう。特筆すべきは、1回目は朝6時(!)森の中で(!!!)行われたことである。私は前日から森の中で飲みながら夜更かしできる自信がなかったので、21時に教会で行われた2回目に行った。
次に、「弾く」立場。前述の室内楽クラス修了コンサートに加え、もちろんピアノクラスの修了コンサートもある。こちらが当時のプログラム。
(「エレクトロもビデオの曲もないの?ここダルムシュタットだよ!?」と
ホールのエンジニアさんに言われたのが懐かしい)
更に「Open Space」という、30分-1時間のコンサートをセルフプロデュースできるものがある。2018年の全プログラムはこちら。私はピアノ受講生として、自分の持ってきたシュトックハウゼンとホリガーという、なんともおもーい(体力的にもハードな)プログラムを弾かせていただいた。そのときの様子。
(シュトックハウゼンの動きの激しさがよくわかりますね)
私以外にも、Rolf Riehmの"Hamamuth-Stadt der Engel"というとんでもない大曲を弾く受講生がいたり、即興大会をしている部屋があったり、とにかく何でもできてしまうのがこのOpen Spaceの魅力だ。
6. 「いま」の音楽って、どこにあるのだろう
さて、ようやくダルムシュタットで何を考えたのか振り返る時間がやってきた。
期間中、ずっとひしひしと感じていたことがある。私が現代音楽と信じて、愛して弾いていた音楽は、全くもって「いま」の音楽ではないのだ、ということ。ふらっとピアノクラスの外を出れば、体育館にオブジェなるものが設置してあり、ヘッドフォンを付けて歩く私の耳には、オブジェとの距離感によって異なる音響が入ってくる。あるいはもはやビデオがメインな「作品」のクラスもある。私のOpen Spaceを聴きに来てくれたとある作曲受講生が言った。「古き良きダルムシュタットを思い出すね」逆の見方をすれば、もはやそれらは「むかし」の音楽。今生きる作曲家は、本当に多種多様なカタチを「音楽」と呼ぶのだ。私の知らない音楽が、あちらこちらで行われているということが、曲がりなりにもショックだった。
では、私は何をもって、「むかし」と「いま」を区別したのだろう。一つ大きな基準点として、「従来の形態、特にコンサートホールでの聴取を前提として書かれているか」があると思う。ホールに人々が集まって音楽を聴く、というのはなるほど今でこそ慣習的に思えるが、そもそも音(=振動)はどこにでも発生し得るものであり、それに回帰する結果、聴取の方法も多様化していく。一方で「人々が集まって音楽をする」というのは未だ儀式的な側面もあり、「むかし」の聴取方法と「いま」のそれは、未来への指向性は違うものの、無意識な過去への帰属という点では似通っているのかもしれない、などと思う。
一方で、私が「むかし」の音楽だと感じてしまった、いわゆる「現代音楽の古典」に対する敬愛も、「いま」の音楽が拡張されるにつれなお深まっている気がする。もちろん、「むかし」というのは、それが歴史の上に乗っているものとして考えられるようになった、ということであり、そうなるためには、演奏家、それも複数人が様々に検証・伝承することが必要となる―最近知った「受容史」という言葉が、まさにそれを示している―つまりは、シェーンベルクにしろブーレーズにしろシュトックハウゼンにしろ、ある程度の数、演奏されるなり、分析されるなりして、「むかし」の音楽へと移ろっていくのだ(決して音楽そのものが古く聴こえる、という意味ではない)。以上のことを考えると、作曲するときの考慮すべき点の一つとして、「再演性があるか」が挙げられるのは、なるほど確かにそうなのだ。
私たちは「いま」の音楽、つまりコンサートホールを飛び出すような音楽は、むしろ「むかし」の音楽を非常に意識している、ということを忘れてはならない。そこに何の脈絡も見えなくとも、両者が強く反発しているということは、逆に両者の存在が明白である、ということではないだろうか。
これからの音楽がどうなっていくのか、特に世界がこのようになってしまった今、予想もつかない。ただ、人間はいつでも過去の音楽を参照して、追随するなり反発するなり、歴史を紡いできた。演奏家ならば、いま、この瞬間も、未来から「歴史」と呼ばれるものを繋いでいこうとしている作曲家がいることを強く意識し、いつの時代のものを弾くにせよ、責任をもって検証しなければならない―それが私がダルムシュタットで最も学んだことかもしれない。
7. 「女性作曲家」問題
さて、この年のダルムシュタットの最も大きな特徴と言えば、作曲受講生の男女比率を1:1に設定した上で、募集をかけたことだろう。私の記憶が正しければ、初めての試みである。ジェンダーの問題は、浅学の私が思っているよりはるかに根深く、複雑なものであろう。何か断定的なことを言える立場ではないが、当時何を思ったか、思い出してみる。
私の周りには、「女性対象の作曲コンクール」や「男性女性同数の受賞者を出さなければいけないコンクール」に対して、懐疑的・否定的な見方をする人が多かった。その上で、ピアノクラスでこの話題が出たとき、受講生の男女比率を同數にすることに賛同する人がほとんどだったのには、正直少し驚いてしまった。もちろん作曲コンクールの件と、受講生の件は、同じように見えて、本質的には少々異なる問題を扱っているのかもしれない。ダルムシュタットに関しては、単純に同数にすることで、問題意識を呼び起こすきっかけになる、ということなのだろうか。
ただ、もし私の作品が「女性の書いた作品だから」と持ち上げられるようなことがもしあれば、私は悲しいと思う。作品は、なるほどその人にしか書けない何かを映しているだろうが、その人がたまたま「女性」だったかどうか、第一義的に注目すべきものなのか、私にはわからない。それぞれの人がそれぞれにしか持ち得ない世界を所有している。作曲するとある一個人は、「男性」「女性」の二極では測れないほど、複雑で豊かな唯一の存在である。それが大事だと思う。
8. おわりに
以上、ダルムシュタット講習会の様子と、私が考えたことを述べてきた。もしピアノクラスで受講してみたい、という方がいらっしゃれば、少しでも参考になれば幸いだし、現代音楽が好き!という方にも、何か新しい視点をお伝えできたのなら嬉しい。付け加えるならば、ダルムシュタット夏季現代音楽講習会を訪れた際には、ぜひ、併設のミュージックショップに足を運んでみてほしい。普段はなかなか手に入らない譜面や音源の宝庫である。
現代音楽、ひいては音楽がどうなってしまうのか、日々考えをめぐらせている者にとって、ダルムシュタット夏季現代音楽講習会は、多様性について何か提示してくれる場所だろうー多様なあり方を目にした結果、また音楽の謎が深まるのだがー世の中には、わたしやあなたの知らない音楽が(クラシックに限らず)存在し、「いまも」存在しようとしている。考えると目眩がしそうだが、この意識を一音楽家の端くれとして、大切に持ち続けたい。
2020年6月6日
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