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遺贈とは人生最後の恋、しかも報われる恋である
IZO PROJECT2021
のオンラインイベントに参加しました。
去年のちょうど今頃、私は遺贈をたまたま証券会社のセミナーで知りました。
「少額でもできる」=私でもできることを知り、自分の選択肢、お客様へのご提案の選択肢が一気にひろがりました。
紆余曲折ありますが、全力で生きてると思うんですよね。割と…この人生が死んでしまったらただ終わるなんて虚しいと思った時、遺贈で思いを遺せることを知りその魅力にはまりました。
日本承継寄付協会の代表理事である三浦さんのお話が私は大好きで、何度も聞かせていただき、今年の春、承継寄付診断士の資格もとらせていただきました。
全国調査の結果を見ても、遺贈をしたい人の半数以上が「何かしらの社会貢献がしたい」と答えています。
社会貢献がしたいなら、今すればいいのになぜ遺贈なんでしょうね。
何かに貢献する時提供できるものって二つあると思うんです
ひとつはお金
もう一つは労力(時間)です。
生きてるうちにお金がないなら労力(時間)をかけたらいいのに
なぜ私はこんなにも遺贈に拘っているんだろう。
その答えは、三浦さんと「世界は贈与でできている」の近内悠太さんの対談にありました。
人生はその気になれば何度でもいくつでもやりなおせる、でも死ぬのは1度きり。
遺贈寄付は人生最後の恋である、人生最後の報われる恋である。
なぜ愛ではなく恋のか…
届く頃にはもう自分はいない。
愛はどこか契約や義務のような感覚があるけれど
一方的で、不合理で、見返りを求めない。
近内さんの言葉のセンスと、言語化能力は著書を読んでいても思いましたが本当にすごい←すごいしか出てこない
私がいた意味、もしかしたらひとりよがりかもしれない。
渡す相手を思い描くだけで、勝手に想像しただけで幸せな気持ちになれる、確かに!
自分がこの世からいなくなることによって発動するわけで
よっていいもわるいも、「その結果」を知らずに済む、要は幸せな妄想のまま死ねるわけです
私が死ぬこと考えて毎日いきているのはきっと死ぬのが怖いからだと思うんですよね
でも遺贈が発動することによって自分が死ぬことに「意味」をみつけられると思えました
いなくなっても世の中は回っていく切なさが少し緩和されるような…私が黙って消えるわけじゃなくてその先があるような…しかも見返りを求めなくとも、受け取った側も何かお礼を返す必要がない。
善意での行いなら愛。キリスト教の精神なら愛をもらったから次に…がボランティアの精神なのかもしれません。
でも愛によるボランティアの精神を子供のころからなぜかものすごく違和感をもっていたのです
にも関わらず社会貢献や遺贈にこんなにも動かされるのはなんだろうと思っていたんですが腑に落ちました。
そして遺贈に思いをはせることは相手を思っているようで、実はめちゃくちゃ自分勝手なのかもしれない、人生最後のわがままかも…と今日思いました。
自分の生きてきた軌跡をたどって人生最後の自己実現をするわけですから。
でもその自分勝手にふりまわされた相手も、遺された家族も、遺贈を受けとった側にもあるのは、なにか満たされた気持ちなのではないでしょうか
素敵なセミナーをありがとうございました。
遺贈もっと関わりたいなぁぁぁぁぁ~福祉とリンクしたらもっとすごいことができると思うんだけど!!
思いのある人を繋げていけるようにがんばる。