「インターステラー」"信頼"と"アメリアの見る死"

先日、「インターステラー」をIMAXで観に行った。その二、三年前に一度観たことはあったが、なかなか、細かな部分は覚えていなかった。

IMAXの凄さはぜひ、皆さんも体感していただくとして、今回観てきた感想を書き記しておきたい。
ネタバレを含む。
久し振りに観返したいと思う方は、以下の二つの点に重きを置くとどうだろう。
特に、二つ目の点は興味深い、と思う。




まずは、ベタな着眼点かもしれないが、主人公・ジョセフ(以下、クーパーと映画では呼ばれてるのでクーパー表記)と、ヒロイン・アメリアが作品の中でどのような変化をしていたのかを見てみる。

大きな点は、「信頼」の変化だろうか。
クーパーは前半、マーフィーに、「子供だから」という理由で任務の重大さ、地球が滅亡に向かっている事実などを伝えていなかった。とにかく「安心していて欲しい」と。
しかし終盤、第四次元世界でマーフィーに信号を送る場面では、「俺の娘だぞ!」と娘を信頼し、地球の命運を託すことになる。
娘なら、絶望せずに、クーパーからの信号を解読し方程式を解き切ること、それが出来るはずだという信頼が生まれていた。

アメリアはどうだろう。少し様相は異なる。

彼女の父・ブランド博士(ジョン)が人類を騙していたことが中盤、明かされる。他の星への移住というプランAが現段階では実行不可能だったのだ。

マーフィーのナレーションになるため、解釈が分かれそうだが、おそらくアメリアは最後、プランAの望みにすがったのだろう。クーパー達が、エドマンズの惑星に移住してくることに賭け、コールドスリープ(長い眠り)をしに行き映画が終わる。

アメリアは、かつてのブランド博士が諦めていた、「新たな星の移住」を信じることにしたのだ。父を悪者にしたくない為か、又はそれは、クーパーという「第二の父」の存在を信じたとも言えそうである。(少し強引か)
ミラーの星で、一回目の波を乗り越えた後、クーパーはブラックホールの可能性と、「親になること」について触れて、並列に話している場面があった。この場面から、アメリアのクーパーを見る目が変わっていったのかもしれない。(他に印象的なのは、エドマンズの惑星を選ぶのは間違いだ、と一蹴する場面など)

この「信頼」という感情の変化が、どのようなキッカケでもたらされていったのかについて意識して観ると、作品の解像度が上がるかもしれない。




そしてもう一つ、私が面白いと思ったのは、「アメリアが人の死を見すぎている」、「アメリアの周りが死んでいく」という脚本の問題である。大胆に言えば、アメリアは「死神」とも言えそうなほど、死に立ち会いすぎている。

まず、ミラーの星での、ドイルの死。クーパーではなく、アメリアの目の前で波にさらわれる。その後、アメリアの父・ブランド博士も息を引き取った。そして、一般的に考えて、あの世界でブラックホールに人間が飲まれるのを見れば、死を直感するものである。アメリアの視点からすれば、クーパーも死んでいる(それでも、生きていてほしいと願うのだが)。そして最後、エドマンズの星では、墓石のようなものが建っていた。おそらく恋人であろう、彼も亡くなっている。

逆に、クーパーは徹底的に、誰かの命が終わるのを直接見ない。もちろん作中、機体の爆発などは二回あったが、アメリアほど直接的で、身内な存在ではなかった。
それを特徴づけるのが、最後、クーパーはマーフィーを看取ることすら許されない。
(クーパーの父母? は触れられただろうか。見落としていたかもしれない)

クーパーとは対比的に、人の死を突きつけられていくアメリア。悲壮感の助長以外にも、何か象徴的な意図がありそうである。アメリアとは、この作品でどのような存在だったのか。

拙い所感で、発見の乏しいものであったかもしれないが、ぜひ以上の二点について、他の方も考えてみてほしい。


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