映画「Saltburn」 ー拡張する「家」という身体ー
さて、私たちの身体って、一体どこまで?
四肢まで? 手足の爪の先まで?……いいや。
たとえば誰かがあなたの歯ブラシやコップを使ったら? 誰かがあなたの大切なものに触ったら? 私たちの身体はそれに反応するようにできている。
映画、「Saltburn」を視聴してきました。以降、ネタバレを含みますのでご了承ください。
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バリー・コーガンのファンになりそうである。いや、本作品以外だと「ダンケルク」や「聖なる鹿殺し」しかまだ観たことはないのだが、この、上流階級の家に巣食う役に何故こうも馴染むのか。「パラサイト 半地下の家族」やらにも出演してたのではないかと錯覚してくる。
さて、早速本題だが、上流階級、貴族、そういう由緒ある家系が、自分たちの伝統の根強さを証明する際何が必要だろうか。一つは、他者の出入りだろう。
主人公オリヴァーに加え、パメラ、ファーリー、その他使用人がフェリックスの家に招かれては追い出され、解雇され、を繰り返していた。パーティーを定期的に開いていたこともそうだ。
多くの他者を招き入れていてもなお、揺るがない自分たちの家の在り方を再確認する。フェリックス家はそのような性質を持っていた。
それは、家族それぞれの特徴にも表れていた。たとえばフェリックスの人格を説明する際には、「おもちゃ」という言葉が使われる。おもちゃで遊び、飽きては捨てる、そういう人間関係を構築していた。
妹のベネティアも、一度物を食べては吐き出してしまう摂食障害を持つ。
しかし、たとえばフェリックスは、おもちゃに飽きても「手放さない、捨てられない」と妹に言われていて、ベネティアの方も身体の関係は許してしまう淫乱さがあった。これらが、フェリックス家崩壊の要因となっていただろう。
今夜だけは見逃すと言い、すぐには手放せず、オリヴァーを最後のパーティーに参加させてしまったフェリックス。身体を許していたがために、オリヴァーを最後バスルームに侵入させてしまったベネティア。二人の破滅、もといフェリックス家の破滅は逃れられないものだったように思う。
又、フェリックス家は、その家全体が身体となっていた。オリヴァーの侵食を、家全体が感じ取っていたかのようだった。ベネティアとの性交渉を強く非難したフェリックス。オリヴァーが浴槽や剃刀などをフェリックスと共用していたことに反応し、怒りを顕にしたベネティア。
ただ、彼らはいとこのファーリーがオリヴァーと肉体関係を持っていたことには鈍感であった……。
私たちは、どこまでが身体だと思えるのだろう。自分が使っている自転車は? 家の床は? 壁は? 鏡は? 親や兄弟は? 亡くなった肉親の墓の土は?
クライマックスのオリヴァーは印象的だ。彼は自身の裸、生身一つこそが信頼に足るものだと考えていたかのようである。それ以外は、彼にとってはすべて虚構なのだと。
反対に、正装という伝統に強く抵抗できず、遠出すると言ってはオリヴァーを故郷に連れ出してしまったフェリックスとの、なんたる価値観の軋轢____
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他にも、エルスペスの、「家は、オリヴァーが去った時のまま」という台詞も興味深かった。フェリックスが亡くなった翌日の、ルーティーンに縛られる(ルーティーンこそが家を存続できるといった盲信、その一択しか持ち合わせない貧相さ)あの昼食のシーンも面白い。ベネティアが狂って暴飲しだすところも相まって。
あとは、オリヴァーが吸血鬼や蜘蛛にたとえられていたり、金銭の問題、リヴァーというミドルネームや川面の対称性(後半、雨が降り濁ること)、オリヴァーの両親の問題についても考えると面白そうである。
又、なんだか本作品はBLなどと絡めてレビューされている人も多く見受けられるが、オリヴァーの、継がれていく血筋そのものへの偏執的な愛と言ったほうが妥当だろう。ジェンダーだけで括られるような話ではない。
ああ、家とは何だろう。久し振りに良い映画が観れた。ではまた次回。