倒れ込み方すら美しい高橋一生くんと、天才劇作家シェイクスピアと野田秀樹(ネタバレあり)
昨日東京芸術劇場にフェイクスピアを観に行った。さっきインスタにネタバレありの感想を書いたんだけど、まだ思考が止まらない。観終わっても、残像が残り、ああでもない、こうでもないと言葉でなんとか表したくなって仕方ない。
見えない言葉。流れていく言葉。手元にのこしておきたい言葉。空疎な言葉。中身のない言葉。
言葉にならない言葉。言の葉。神から人間にだけ与えられた最後のひと葉。
白石佳代子さんが、昨日のマチネで、ハムレットの「生きるべきか 死ぬべきか
それが問題だ」のとこで、多分アドリブをして、思わず一生くんの笑いが零れるところがあって、本当に目がつぶれそうになった(*´Д`*)まばゆくて、眩しくて✨ 下手でわりと前方席だったから、そのこぼれ落ちた輝かしい一瞬を、なんとか言葉で残しておきたいけれど、足りない。柔和で、優しくて、空気を、震わせるような貴い笑みだった。。
私はドラマで一生くんを認識して組なんだけど、もともと舞台人だということが、よく分かった。倒れ込み方ひとつとっても、美しいのだ。
指先、しなり方、頭と胴体の時間差のバランス、足先、目を瞑っているご尊顔←
何度も倒れるんだけど、同じではなくて。
声も芝居も暑苦しくならないのに、熱量が凄い。
後世にずっと名を残すシェイクスピアは、もちろん偉大な劇作家で、さい芸でも悲劇をいろいろ観てきたけど、まさかの四大悲劇を野田さんがあんなふうに雑にまとめるとは爆笑だった( ˊ̱˂˃ˋ̱ )
白石さんの恐山イタコ修行の話と、読んだ本とシェイクスピアと星の王子様を脳内で繋げて、言葉に紡ぐ野田秀樹も、天才劇作家の集合体のくくりがあったら、シェイクスピアと同じで、いいんじゃないか?‼︎‼︎‼︎‼︎
わたしは、いま46歳で、あのときは、10歳だった。夏休み、九州のおばあちゃんちで、分厚いテレビに釘付けになった。あの日は、わたしのばあちゃんの誕生日で、ばあちゃんは、テレビの中の人たちのことを悼みながら、食卓にごはんを並べてくれていた。
毎年毎年毎年、夏休みには九州で過ごして、ばあちゃんの誕生日は、テレビが騒がしかった。ばあちゃんは、毎年、その日が来ても、伏し目がちだった。
野田さんの舞台で、あの日のばあちゃん越しに見たニュースを思い出した。
前半からずっと謎だった言葉や数字に意味があることが分かった瞬間は、雷に撃たれたかのような衝撃を受けた。啜り泣きが会場のいたるところから聞こえてきた。オンラインでは、絶対に味わうことができない空気感。舞台と客席との同化。橋爪さんの眼は、その空気を受け止めてくれていた。
あの、圧倒的な語群。
それに比べて、あまりに空疎、空虚な
言葉ともいえない言葉を繰り出す
コロナ対策禍を繰り返す人々。
2021年に上演される意味を思う。