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愛の変質、呪縛の澱、本当を見出すことの難しさ -彩瀬まる『あの人は蜘蛛を潰せない』

 『眠れない夜は身体を脱いで』から彩瀬まるが好き。『不在』もよかった。

 作者名とタイトルの鮮烈さで買った。彩瀬さんの本は多かれ少なかれ、「愛の変質」と「呪縛」について書いているように私には思える。母親から娘への愛、恋人への愛、夫婦の愛、本作では色々な愛が、現れては形を変えていく。その様は、美しくはない。でもそれも愛の本質な気がする。そもそも実態のないものだし、状況や相手によってぐにゃぐにゃと形を変えるものだ。だるかったり、重かったり、気持ち悪かったり…。「かつて愛だったもの」ほどしんどい。でも一度醜く形を変えた愛が、美しい形を取り戻すことだってある。本作では、その過程もきっちり描かれているのが、なんか救いだなと思う。

 『あのひとは蜘蛛を潰せない』はジャンルとしては恋愛小説だが、主人公が母親に骨の髄まで叩き込まれた、「みっともない」ことの定義と、「みっともなく振る舞ってはいけない」という呪縛から解放される様もきっちりと描いている。それは藻掻きの過程であるので、必然鬱屈とはしているのだけれど、それでいてどこか涼やかだ。初めての恋の甘酸っぱさ、実家から飛び出して乗る自転車のタイヤがぐんぐん進む手触り、夏の夜の川沿いの風、銭湯の湯気。そういうものが絶妙に軽やかで、読んでてあまり暗い気持ちにならない。ならないけどイラっとする。自分にかけられた呪縛に気が付きもせず、呪縛の中でおとなしくしている様子も、呪縛の外に出るのを不安がる様子も、あまりに私そっくり。この苛立ち、どうひっくり返しても同族嫌悪。でも、だから読んで良かったなと思う。

 私の周りにはたくさんの呪縛が渦巻いているし、愛は当たり前に変質する。ただ、当事者として自分の呪縛を直視することも、変わっていく大事なものを受け入れるのも、なかなか難しい。でも、小説を通してなら、できる気がする。

 最後に本筋とは外れるが、本文から一文を。

「私と遠くへさらわれたい時がある、と打ち上げれば良かった。そうしたら彼も、やるせない本当の病の話をしてくれただろうか。」
 大人になればなるほど、上澄みを掬って綺麗に濾したものだけを、他人に差し出す技術が上がっていく。濁してなにも差し出さないこともある。そういうの、本当に上手くなった。相手も同じ大人だから、他人の「本当」を見つけ出すのは至難の業だ。隙間から慎重に掬いあげる。蜘蛛を殺せないことだけが本当だった。本当をたくさん交わすことができたらいいのだけど、節度を守って、失礼にならなようにと思うとこれが大変に難しくて、節度とか失礼とかあぁこれもなんか呪縛っぽいな。

 高校生の頃にできたことが、みるみるできなくなっていく。でも代わりにできるようになったことがあって、成長ってやっぱり「変化」の別名なのかもしれない。時によってもたらされる、鮮やかな、あるいは密やかな、それ。

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