
数式に溺れる
僕は物理学が専門の大学院生です。その中でも特に理論物理学という、計算によって物理を調べる分野を専門としています。
ですので、毎日毎日、微分・積分、ベクトル、行列、etc. ……を使って計算をしています。きっと物理学や数学に詳しくない人が見ると、数学をしていると勘違いしてしまことでしょう。
しかし僕がやっているのは物理学です。だから計算している数式には必ず具体的な対象があって、それを数式という「言葉」で書きつづっているのです。そういう意味で、物理の人たちが書く数式は情景を書き表した絵画や詩のようなものと言えるかもしれません。
一方で数学——とくに純粋な数学——をやっている人たちは数式に対する具体的な対応物がなくてもかまいません。ですので数学の人たちが書く数式は具体的な対象物を持たない、いわば抽象絵画や概念的な詩に喩えられるでしょう。
ですから僕たち物理屋は情景を思い描きながら数式の読み書きをしなければなりません。しかし僕は、往々にしてこのことを忘れてしまい、数式に「溺れて」しまうのです。
数式を変形することはできたけれど、コレが何なのかわからない。目の前の風景を見ながら絵を描いていたはずなのに、いつのまにかキャンバスの中だけを見ていて、描き上がった絵が山なのか海なのか、はたまたビルなのか、さっぱりわからない。ある情景を思い描きながら言葉をつづったら、文字の羅列にしか見えない詩が出来上がってしまった。
このような状態のときは、決まって苦しいです。水面に上がることができず、息を止め続けているような感覚におちいります。もがいて、もがいて、ジリジリと前に進むことはできるけれど、その間ずっと息をすることができません。
しかしあるとき、何かのきっかけで急に息継ぎができるようになることがあります。それはたまたま読んでいた本の一文だったり、先生の一言だったりと色々ですが、とにかく不意に呼吸ができるようになるのです。
荒い息を整えてふと後ろを見ると、これまで泳いできた——あるいはそんな綺麗なものではなく、もがいてきた——道のりがみえます。息継ぎのできなかった水中の景色も、これまで見えなかった水面の景色も、もっと遠くに見える周りの景色も全部みえるようになっています。
そして足元には、いくつかに分かれた道がみえます。どれを選んでも、恐らく息継ぎのできない、長い長い苦難の道です。次に息が吸えるのがいつかもわかりません。もしかしたらそのまま溺れ死んでしまうのかもしれないと思うと、不安や恐怖すらおぼえます。
だけど、また僕は、数式に「溺れ」に行くのです。
いいなと思ったら応援しよう!
