【詩】美しいということ
私は単純であった。私は自分の動作を手と足を動かすものと、それに付随した各筋肉の緊張と弛緩として捉えていた。天象はめぐる。何も知らない者、私は日月の巡りを繰り返される現在としか捉えられなかった。天文の力学とも認識の精緻とも無縁なところで光を浴びて生き、体の経験は一行の言葉に言い換えられ、そのまま消えていくようだ。例えば私は「今日は寒いね」と恋人に言って、窓から差し入る冬至近くの乾いた陽光のベッドで性器を結合し、その経験はそのまま忘れ去られた。今そのことを記しているのも記憶なのか、記憶から単純に抽象された言葉の連なりという別の事象なのか、判断がつかない。
私はさらに単純になる。私には無生物と生物の違いがよくわからない。「魂とは何かってことかな」と恋人は言って私の耳を軽く噛んだ。そうではない、と私は言った。生物とは湿ってよく動く、無生物のバリエーションの一つだ、と常々感じているからだ。電子顕微鏡で見たら有機的結合やそれを統合する意識なんて見えないよ、と私は言って滅亡のしばらく前の街の風景の中にいた。さらに単純になる、というのはそういう私にあった強い意志だ。もっと単純になりたい。
私は手と足を動かして体を移動させ、箱型の移動体に付属しながら平面的な街の自分の座標位置を頻繁に更新していった。私はどこに向かうのだろう。もはや恋人はいなかった。もともと恋人はいなかったのかもしれない。私は単独で美しい。なぜか。地の底で人目に触れない石も美しいからだ。私が死んでも私の腐肉が美しい。臭いもぬるぬるした触覚も、転変する九相がすべて美しいよ、と存在しない恋人が私を褒める。存在しない恋人はモノとモノとの間に成り立つひとつの状況であった。それはもちろん私という状況の一局面であり、私は既にモノに親しく生き物に遠い。だからすべてが美しい。
欅の並木は既に裸木であった。枝葉は全てを振い落としたいくつもの筋として枝々を突き上げている。その先端の一番高いところ、細く危ういところに百舌鳥が止まる風景を私は見たことがある。百舌鳥の体重で枝は危うく揺れるが、鳥が飛び立つとき揺れは最も大きくなる。私はそれを楽しんでいた。そのとき私の官能も揺れるからだ。私は揺れるものであった。
欅の葉は緑から茶色に変色して枯れ落ちる。冬が深くなると枝に残ったわずかな枯れ葉が脱色されて白くなる。初め私はそれを白い小鳥だと思った。蝶かもしれないと思った。蟷螂の卵かもしれないと思った。それは全て錯覚で実際には転変する生物の末路であったのだが、検証できない記憶の中ではそれは鳥であり、蝶であり、卵であり、つまり動いてその場を去るものであった。
私が風景の中を遠くへ去っていく。鉄路で車輪が軋む。言葉の中で沿線の街は直方体の集積だが、私は知っている。実際にそれは不定形でぬるぬるして気持ち悪いものの組み合わせだ。そう知っている私がこの場の風景を去っていく。遠くなる。寂しくなる。