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人間不信万歳

人を信じられない=人間不信
人間不信が万歳などと書くと、何がいいのかと問われるだろう。

そもそも不信とは、信じられないということ。
信じたくない気持ちはみんな勝手に湧いてくるもの。
それを万歳というのは何故か。

自分が不信になるわけだから、観る方向は当然自分であり、問題があるのは相手になる。私はこうだったのに、とか私はこう思ってたのに、とか、私はこれだけのことをしてたのに、という感情が湧く時、その理由はすべて、相手の行動や言動が自分の思っていたようなものではなかった、という時に起こる。
つまり不信になるのは、自分自身の問題だということだ。
何故なら、人はそれぞれ違っていて、考え方も感じ方も違っているのが当たり前なのだからそれを否定すること自体無意味であり、信じられないのはこちら側の勝手で、相手側から見れば故意に信じられないことをしたり、話したりしている訳ではないからだ。

決して自分を高く見るわけではないが、不信になる相手は、自分の物差しで測ると信じられない理由が存在しているのだ。

ここで問題になってくるのは、自分の物差しだ。
そこはなるべく広げていく必要がある。
自分の物差しが長い人ほど、人を見る許容量が大きい。でも自分の物差しに関わらず、相手の考え方が単に受け入れられないことの方が多い。
元々、不信を抱く場合、すでにその時点で自分と比較していることに気がついた方がいい。他人を自分の物差しで測るなんて、と思う人は、その点に気がついているだろうか。自分とは違った考え、感じ方があることは当たり前のことであり、そこを受け入れられないから不信になる。

コロナで自粛をすることにより、自分自身と向き合う時間が持てた。
テレビもなるべく観ないで、ひたすら音楽を聴いた。本を読んだ。映画も観た。
音楽を聴いたり、本を読み、映画を観ていると、さまざまな感情が湧く。
本来、それが人間の持つ力なのだと認識できた。感じる、ということをこのように使わないと、人は疲弊する。
直接的ではないSNSでの人の目や、言葉、行動などは、実際に向き合って感じるものではなく、それらを目にすることで、必ず自分の感情が伴う。いわば、個人的な感情のフィルターがそれらそのものをすでに自分色に染める。他の人たちは自分ではないのに、自分と違った部分という形で変な一人歩きをする。
良い感情はそれでいい、でも少しでも否定的なものに対しては、さも相手が悪者であるかのような感情が湧き、それにつれてどんどんやるせなさが増し、寝ても覚めてもそのことに取り憑かれていることが多い。

フレネミーという言葉があるが、実は一番味方だと思っていた人が自分を一番否定する敵だった、と感じたことがある人は多いのでないか。人との関わりはある程度種分けしておいた方が人間関係はうまく行く。<知りあい><仲間><友達><親友>表現する言葉があるのは、それらはみんな違う関係であるということだ。そこを自覚せずに、同じ付き合い方をしているうちに、相手がいつしか自分と同じ感じ方をしているものだと思いこみ、何か起こると瞬く間に相手のせいにして攻撃の対象にする。フレネミーは自分が作り出した勘違いの人間関係なのだということがわからずに悩むのだ。元々種分けがしっかり自覚できている人は、自分と他人の区別ははっきりできている、感じ方も考え方も違うことが認識できているが、そうではない人の方があまりにも多く、その時に思い知るのが、<人の口の怖さ>なのだろう。

人の口から出る言葉を音としてとった時、茶道の炭手前を思い出した。
炉の灰に置かれた下火の炭に新しい炭を置き、火をつける作法だが、これは単に湯を沸かすために炭に火をつけるというものではない。炭にはさまざまな太さ、長さのものがあり、それをいかに火が起こりやすいか考えながらくべていくのだ。
主に炭手前は茶事の最初に亭主がお客様に炭をくべる様を見せるものだが、茶事は濃茶、薄茶、懐石でなりたっており、炭手前は炭の燃える音でこの流れでお茶にちょうど良い温度に湯が湧くように組み立てられた非常に奥の深い作法なのだ。
炭がくべられると、炭が燃え始める音が聞こえ、それが湯の沸く音に変わる。
音のない茶室だからこそ、普段耳を澄まさなければならないほどのかすかな炭の音、湯の音が聞こえる。その音を聞き分けるのは客の為であり、茶湯の精神である一期一会の音につながる。

毎日の生活の中で、私たちは本当に耳を澄まさなければならない音を聴くことが、今とても少なくなってきている気がする。テレビのワイドショー、偏った報道も然り、人が話す言葉は実は時として雑音であることに気がついた。
本当に聞かなければならない音とは、例えば、なるべく意識の高い人の言葉、暖かな愛情を持つ言葉であり、そうした言葉の音は、ただ聞くのではなく感じることで自分が成長できる力に変わる。
自分の利益や主張ばかりを第一に考えている人の言葉は雑音だ。
何故なら、そこには感謝などなく、いい言葉を巧みに使っていても、結局は自己アピールや私利私欲に満ちた傲慢さが潜んでいる場合が多いからだ。

惑わされてはいけない。そういう雑音は自分のエネルギーを奪う。
そうではなく、例えば自然の音を聴いてみよう。
自然の音は決してエネルギーを奪わない。
雨がたくさん降ったり、雷の音は確かに怖い、でも怖いながらも現在各地で起きている自然災害は、遠くにいる人を思う気持ちに変わる。鳥の泣き声一つでも、耳を澄ませて聴くことで、鳥が今見ている景色はどんなだろうか、とか、風の強さ、温度などをどう感じているのだろうか、というイマジネーションが膨らむ。そして、何不自由ない今の自分の生活よりも鳥の飛ぶ空の広さの方が遥かに自由で素晴らしいかを思い知る、人間の小ささを感じる、、といったように。

言葉は人の声によって耳に届くものであり、画面に表示される言葉は音ではない。
例えば、「こんにちは」でも、表示される文字では、ただの挨拶文だが、実際会ってお互いに目を見ながら発する音が伴うことで、お互いを思いやる言葉であるかどうかがすぐにわかる。満面の笑みでこんにちはと言いながらも心では相手を無視している時だってある。おどおどしながら笑顔で目をそらしながらこんにちは、と返される場合もある。
音の持つ力の違いは心の動きが伴っていることに起因していることが多い。

言葉を武器にして、という人がいる。明らかに悪質な言葉は確かにある、それは故意に相手を誹謗中傷したり、最近話題になっている、見えないネットでの批判など、言葉を使って攻撃する人は後を絶たない。だが、言葉を武器にされた、と思い込む人もまた多い。大抵そういう場合は、被害者意識が強い人によく見られる。そして、もっとたちが悪いのは、自分がやられたからやり返すといった類の考えであり、そういう人に限って、自分を正当化させるための手段を選ばない。何をしても勝手だがその段階ですでに、その人もまた言葉を武器にしていることに気がついていない、

相手の発する言葉に悩んだり、信じられないと思う時、その音は雑音なのだと思える力が欲しい、不信になるのは実はありがたいことだ。自分のキャパの狭さを思い知る場合もあるし、相手の嘘も見抜けるからだ。そう思えば結構気持ちが上向きになれる。人には必ずただ受けるだけの五感だけではなく、心で感じる第六感を持っている。その感覚の深さは感情と繋がっている分無限だ。

音によって感じることを大切にすることを前提とするならば、人間不信は、自分の物差しを広げるチャンスであり、万歳なのだ。


 


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