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化学物質により心が変化するとしたら、その人の個性とはいったい何なのか?

これまでの人生で2回ほど静脈麻酔薬を用いた全身麻酔を受けたことがあります。
麻酔としての効果は全く問題なかったのですが、1回目は覚醒時、2回目は意識を失う前にせん妄状態に陥って意味の分からないことを口走った記憶が残っています。しかしだからといって本当に私がそういったことを口走ったと断定するのは早計です。なぜなら、せん妄状態に陥ったことにより偽の記憶が作られたという可能性もあるからです。


柳原病院の乳腺外科医事件

これはかなり有名な裁判で、ニュースでもたびたび取り上げられているのでご存じの方もいらっしゃると思います。まだ裁判は続いているのですが、おおよその経緯は下記サイトにまとめられています。

起訴事実

男性外科医は2016年5月10日の午後2時55分から午後3時12分までの間、病院の病室内において、手術後で抗拒不能状態にあり、ベッドに横たわる女性患者に対して、診察の一環として誤信させ、着衣をめくって左乳房を露出させた上で、その左乳首を舐めるなどのわいせつ行為をしたとしてます。

争点

女性患者が暴行されたという記憶が、麻酔によるせん妄や幻覚によるものかどうかが争われています。せん妄や幻覚によるものだとしたら暴行の事実はないのですが、そうでなければ暴行が実際にあったこととなります。

裁判の経緯

  • 2016年5月10日
    外科医が女性患者の乳腺腫瘍の摘出手術を行った。この際に、女性患者にがわいせつ行為を受けたとして被害を届け出た

  • 2016年8月25日
    外科医を逮捕

  • 2016年9月14日
    外科医を起訴

  • 2019年2月20日
    東京地裁で無罪判決

  • 2021年7月13日
    東京高裁で逆転有罪判決(懲役2年)

  • 2022年2月18日
    最高裁で有罪判決破棄、東京高裁へ差し戻し

ということで、まだ裁判は続いています。
これについては私は原告と被告どちらが正しいのか判断する材料を持っていないので何とも言えないのですが、少なくとも医療の専門家は、麻酔によって偽の記憶が作られることは十分あり得ることだと考えていることは確かだと思います。そして、これは「記憶」「精神」「心」というものが、麻酔という物質の力で簡単に変化してしまうということも示しているのだと思います。

薬が精神に及ぼす効果

麻酔に伴うせん妄状態の不確かさについて長々と書いてきました。
もっと広い範囲において、投薬が心に影響を与えることは当然の事実として知られていますが、次のポストは本当にその通りだと思いました。

もう一つ、デパス(エチゾラム)を日常的に服用している方のツイートを紹介します。

私はそれほど強烈な精神系の薬を飲んだことはないのですが、それでも薬を飲むとあからさまに気分が安定するということは経験があります。前述のせん妄の話も勘案すると、人間の精神のあり方は相当程度に化学物質に左右されるのは間違いないことだと思います。

「魂の重さは21グラム」という話

話は大きく変わりますが、1907年に発表された有名な実験を紹介します。
人の魂が物質であると仮定すると、死の瞬間に魂の分だけ体重が減るだろうという推測のもとに、亡くなりつつある人を天秤ばかりの上に安置して重量変化を測定したというものです。

これによると(カッコ内翻訳は私によるものです)

At the end of three hours and forty minutes he expired and suddenly coincident with death the beam end dropped with an audible stroke hitting against the lower limiting bar and remaining there with no rebound. The loss was ascertained to be three-fourths of an ounce.
(3時間4分後、彼は息を引き取り、同時に突然天秤の重りが音を立てて下降し、装置下部と衝突してそのまま戻らなかった。重量の減少は四分の三オンスであった。)

Hypothesis Concerning Soul Substance Together with Experimental Evidence of The Existence of Such Substance

とのことで、四分の三オンス=約21グラムの重量減少があったことから、「魂の重さは21グラム」との俗説が生まれました。ただ、この論文にはほかにも実験結果が示されていて

My third case, a man dying of tuberculosis, showed a weight of half an ounce lost, coincident with death, and an additional loss of one ounce a few minutes later.
(三番目の実験では、結核で死亡した男性において、死亡と同時に体重が半オンス減少し、数分後にはさらに1オンス減少した。)

Hypothesis Concerning Soul Substance Together with Experimental Evidence of The Existence of Such Substance

My fifth case, a man dying of tuberculosis, showed a distinct drop in the beam requiring about three-eighths of an ounce which could not be accounted for. This occurred exactly simultaneously with death but peculiarly on bringing the beam up again with weights and later removing them, the beam did not sink back to stay for fully fifteen minutes. It was impossible to account for the three-eighths of an ounce drop, it was so sudden and distinct, the beam hitting the lower bar with as great a noise as in the first case.
(5番目の実験では、結核で瀕死の男性において、重りが明らかに下降したため、釣り合わせるのに約八分の三オンスの重りの操作が必要であったが、この原因は不明である。これは死と全く同時に起こったが、重りを追加して天秤を再び釣り合わせたのち、その後重りを外しても、天秤は15分の間釣り合ったままであった。よって、この八分の三オンスの重量変化の原因は不明である。天秤の落下は突然であり、最初のケースと同じように大きな音を立て天秤の重りが装置下部に衝突した。)

Hypothesis Concerning Soul Substance Together with Experimental Evidence of The Existence of Such Substance

ということで、四分の三オンスではなく、1.5オンス=42gの例や、または八分の三オンス=10.5gの重量変化が起きたがその後天秤が再び釣り合った例もあり、定量的な結論は出ていないようです。
私はこの話をけっこう信じていたのですが、死による体液の排出などの影響が十分には考慮されていないために、今となってはほぼ間違いであるとされているそうです…。

心身二元論 vs 心身一元論

心と体の実在については、大きく「心身二元論」と「心身一元論」と呼ばれる考え方が存在します。

  • 心身二元論:物質としての肉体とは別に心は存在している。そのため心は物質の作用からは独立したものである

  • 心身一元論:心は物質(肉体)により構成されたものであり、肉体が消滅すると心も消滅する

実際にはこれほど単純ではないのでしょうが、薬で心のありようを操作できるということを考えると、少なくとも純粋な心身二元論は分が悪そうです。
よく、死後にその人は幽霊となるだとか、天国に行って我々を見守ってくれているだとかいう話がありますが、その死者の心のよりどころとなる肉体が存在しない以上、なかなかこういった話は信じがたいようにも思います。

個人的には、麻酔や安定剤により簡単に気持ちが落ち着いたり乱れたりした経験は、大きな衝撃でした。個人の個性というものも、化学物質の影響からは全く逃れられず、だとするとその人の意思や記憶もとても不確かなものに思えてしまいます。

なお、タイトル画像を使わせていただいた漫画「未来さん」では、無駄で複雑な経路をたくさんもったシステムには心が宿るという説明がなされています。もちろんフィクションですが、なかなか面白い説明だと思いました。
ただ、逆から言えば、心が宿るためには無駄で複雑なシステムが必要ということなので、これは心身一元論に属する考え方ですね。

おまけ「麻酔中の意識と記憶」

麻酔によりせん妄が引き起こされる話とは全く逆ですが、麻酔時における周囲の会話を完全に記憶している例が、下記論文で紹介されています。

<症例 5 > 30 歳代後半の肥満女性の訴え
「麻酔を受けた患者から,麻酔中のことをすべて憶えている」という訴えがあったと,私がその力量を信頼している女性麻酔科医からの報告があった.
硬膜外麻酔によって痛みを遮断し,覚醒の迅速な静脈麻酔薬プロポフォールで浅い麻酔で維持していたという.外科医は多くは紳士であるけれど,手術室でいったん裸になって術着に着替えるためか,話すことは時に上品とは言えないこともあった.
「こりゃひどい腹だな」と外科医 2 人が言ったという患者の訴えである.現場にいた女性医師も聞いており,患者は手術中の外科医の会話を細部まで憶
えていたという.プロポフォールは心血管抑制作用が強い.肥満患者であり,かつ硬膜外麻酔を併用しているので,通常よりは投与量も少なく維持していた.患者は「医師への信頼感がなくなった」とも言っていた.

「麻酔中の意識と記憶」より

これはこれで、なかなか恐ろしい話です。一見完全に意識を失っているように見える人が、実は周囲の状況を把握できているということになります。
この例からは柳原病院の女性患者の言い分を簡単に嘘だと却下できないことになってしまうのですが…。

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