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芸術作品と政治思想について


「現代美術史」を読んで思ったこと

ソーシャリー・エンゲージド・アートについて

昨年末頃に「現代美術史 欧米、日本、トランスナショナル」という本を読みました。

一言でいうと、ものすごくわかりやすい本です。私はこれまでにも、ごくまれに美術系の本を読んだこともあったのですが、これほどちゃんと理解できた本は初めてです。はるか昔、受験生であったころにわかりやすい参考書を手に入れたときの感動を思い出しました。

全体的な内容については、ネット上に著者ご本人のインタビューがあるので、これを読んでいただくと良いと思いますが、この記事では(またつまみ食いで申し訳ないのですが)気になったところを述べたいと思います。

この本のテーマの一つとなっているのが、「ソーシャリー・エンゲージド・アート(SEA)」です。SEAは

公共空間での人々との交わりを志向する社会的芸術実践

「はじめに」より

とのことですが、私がこの本を読んだかぎりでは、

「政治的な事柄について気づかせたり考えさせたりすること、または政治的な主張に基づき社会を変化させることを目的とした芸術作品」

と解釈しました(概ね外れていないと思います)。
クレア・ビショップというイギリス人の美術史家は「アートフォーラム」誌への寄稿「芸術における社会的転回」(2000)にて、

現代美術における関心の中心が美的なものから社会的なものへと移行した(「社会的転回」)と指摘します。

「第二章 芸術における関係性を巡って 一九九〇年代から現代
2 社会とかかわる芸術――ソーシャリー・エンゲージド・アート」 より

と指摘しており、少なくとも海外ではこうした政治的な主張に基づく芸術が主流になりつつあるそうです。実際に、ドイツ人建築家マーカス・ミーセンは「参加という悪夢」(2010)において

昨今の参加型アート・プロジェクトに見られる「民主主義的な」プロセスは既存の秩序を追認するだけの同意を基盤とし

「第二章 芸術における関係性を巡って 一九九〇年代から
現代2 社会とかかわる芸術――ソーシャリー・エンゲージド・アート」 より

ているとしており、

そのような構造の中では、社会に影響を及ぼすラディカルな変化や政治的に意味のある不同意が起こりにくいこと

「第二章 芸術における関係性を巡って 一九九〇年代から現代
2 社会とかかわる芸術――ソーシャリー・エンゲージド・アート」 より

を批判しているそうです。
これは逆から見ると、ミーセンにとっては「社会に影響を及ぼすラディカルな変化や政治的に意味のある不同意が起こ」らないような芸術は不十分であるとみなしているようにも感じました。

これは、私にとっては少なからず衝撃です。私が勝手に持っていたイメージは、芸術家というものは美の追求にのみ興味があり社会とはむしろ没交渉な人物というものだったからです。しかし、現代美術においてはむしろ社会活動に積極的に参画して、社会的な主張を行うのが主流なのです。
(そう考えると、美術館に行って芸術作品にペンキを投げつけるような方々のやっていることも、社会活動の一環であり一種の「アート」と言えなくもないのでしょうか?)

私は美術館で政治的な主張を目にすることを望んでいるのだろうか?

美には正解がないといわれます。生物的、曲線的、有機的なものを美しいと感じる人もいれば、機械的、直線的、無機的なものを美しいと感じる人もいます。もちろん、両方を美しいと感じる人もいます。
そして、ある人が美しいと感じるものを、別の人が美しいと感じなかったからと言って、それ自身は責められるものではありません。多種多様な審美眼があり、それはその人それぞれの感じ方だからです。
ただし、今までにない新しい形の美的な価値を見出して共感を得ることができたら、それはそれで素晴らしいことです。また、共感を得なかったとしても、自分にとって美的価値あるものをつくり出せたなら、それも意味のあることだと思います。
私は美術に関しては完全な素人ですが、見たことのない何かをみるのが好きだから美術館に行くのだと思います。そして、たとえ美術館で見たものを私が気に入らなかったとしても、その展示物に価値がないということではありませんし、一方で私の価値観が誤っているというわけでもないでしょう。

生物的な美しさ
https://ja.pikbest.com/photo/stunning-nudibranchs-adorning-ocean-floors-with-colorful-splendor_10143400.html
機械的な美しさ
https://ja.pikbest.com/backgrounds/strike-gleaming-watches-with-intricate-gears-a-striking-3d-render_9838188.html

一方で、政治的な主張は善悪、正誤の価値観に直結します。本来は、保守的な人も、リベラルな人もお互いの価値観を尊重できればいいのですが、めったにそういうことはありません。多くの場合、どちらかが正しいならもう片方が間違っているという「あれかこれか」状態となります。
そのため、作者の意見に合意できない場合は「戦い」のような状態となります。そして、私自身は美術館に行ってまで戦いたいわけではありません。むしろ、政治的な主張をしたいなら芸術という形ではなく、ストレートに政治的な主張そのものを文章で読みたいのです。

PETAのサイトより「Killing Animals Is Killing Us All」
こういう主張は美術館で出会うのではなく、本で読みたいです。

マンガにも社会的主張が進出しつつあるのか?

ここで思い出したのが、ちょっと前に記事で取り上げた「このマンガがすごい!2025」です。

オトコ編1位の「君と宇宙を歩くために」、3位の「どくだみの花咲くころ」はいずれも発達障害を扱った作品。
オンナ編3位の「ボールアンドチェイン」、4位の「じゃあ、あんたが作ってみろよ」、9位の「線場のひと」はいずれもジェンダーを扱った作品。

こういうことを書くとアレなのですが、私は漫画にはエンタメを求めていて多様性について深く考えたいわけではないのです。しかし、最近の漫画賞では「このマンガがすごい!」に限らず、社会的・政治的な題材を取り入れるほうが評価が高い傾向にあるように感じています。これは、「社会問題を扱った作品の評価が底上げされている」と言ってもいいでしょう。

しかし、私はそうした主張は、漫画という物語性をもつ作品でエモーショナルに訴えかけてくるのではなく、物語性のない通常の文章で読みたいと思います。一方で、本屋さんでそういう本を探しても玉石混交のうちの石があまりにも多くて、まともな本を探し出すのに非常に苦労するという悩みはあるのですが。

政治的思想が強い漫画の一例

杞憂かもしれない、ちょっとした心配事

過去に、社会問題を扱った作品の評価が底上げされた時期がなかったわけではありません。第二次大戦中には「日本文学報国会」が

国家の要請するところに従つて、国策の周知徹底、宣伝普及に挺身し、以て国策の施行実践に協力する

戦時下の北京における出版物取締と雑誌『月刊毎日』

とのことで、大日本帝国の国策に沿った価値観を広めるためのプロパガンダのために文学を活用しましたし、旧ソ連では

ブソ連の著者の著作においては「ブルジョア的・地主的歴史記述にあるすべての著作を作り変えよ」というスローガンが鳴り響いていた。
長い間、彼らの著作においてはあらかじめ決定された一連の課題のみが取り扱われた。
すなわち、専制体制の全面的腐敗の呈示、「唯一信頼すべき」ボリシェヴィキの敗北主義的戦術の無条件かつ全面的な正当化、ロシアにおける革命的危機の先鋭化に対して軍事事件が及ぼした巨大な影響の立証である。
そして、このような点に関する公式見解と、あらゆる異論に対して、厳しい批判が繰り返され、異論の出版は許されなかった。

日露戦争に関するロシアの研究史 --重要な時期·考え方·傾向--

という状態が続いていたのです。もちろん、政治的な主張は自由ですし、それをどういう形で行うかもまた自由です。しかしながら、政治的な主張を伴うだけで芸術作品、文学作品の評価がかさ上げされるというのは、それはそれで危険な傾向のようにも感じたりもします

「The Great Sacrifice」James Clark (1914)
第一次大戦中に戦死を美化するためにつくられた絵画作品

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