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文系vs理系論争と再現性に関する話


理系の研究は「誰がやっても答えは同じ」だから興味をもてない?

定期的に盛り上がる文系vs理系論争ですが、ちょっと前にXでも下記ポストが盛り上がっていました。

これは絶許狙いの予感もするのですが、この方が単なる一般人というわけでもなく、高知大学の教授だということもありまあまあバズりました。結構いろんな人からの反論や意見などもあったので、大まかに分類してみました。

なお、この方は「理系」ではない学問=「文系」の学問としては、おそらく文学研究を主に指して言っていると推測されるので、この記事もその前提で言葉を使用します。

反論1. 人によって答えが違うのは学問と言えるのか?

これはなかなか手厳しい話ですが、理系の学問でも人によって異なった答に行きつくことは十分あり得ると思います。たとえば「なぜ時間は一方向にしか進まないのか?」(一般的に「時間の矢」と呼ばれます)はよくわかっておらず、現在でも「諸説ある」状態です。これは「誰がやっても答えは同じ」とは到底言えないと考えられます。

ただ、上記のようなことを言うと、

  • 理系の学問は、現時点で複数の対立する学説があったとしても、真実は一つしかなく、その真実を最終的に明らかにするのが目的である

  • 文系の学問は、唯一の真実というものは存在せず、永久に研究者の個性が残り続けるものである

というような反論も考えられます。ただ、私にはいずれも「定説を確定させるための証拠を現時点で集めることができないだけであり、証拠が集まった時点で定説が決まる」という点で共通しているように思います。
文系の研究でも、タイムマシンや人の思考を可視化できるような装置が発明されれば、十分な証拠が集まって真実が判明しそうな問題がありますが、これは理系の学問でよく言われる「現代の科学では解明できない」問題と同様ではないでしょうか。

*本当は「科学的実在論を是とするか?」という話もありそうな気がするのですが、私には手に負えないのでとりあえず置いておきます…。

反論2.世界で初めて新しい発見にたどり着けるのは、誰でもできるわけではない

これは、元のポストを投稿した方が「誰がやっても同じ結果にたどり着く」のが興味が持てないと言っているのに対して、「能力がない人は結果にたどり着くことができない」という反論です。
ただ、元のポストを投稿した方は「徒競走」という比喩を使っていることから、これら反論されている内容は最初から理解なさっているようにも思えます。元のポストを投稿した方が「誰が唯一の答に最初にたどり着くかの競争」に興味が持てないと言いたいのに対して、「競争に参加するにも能力が必要」と反論するのはやや議論が食い違っているようにも感じました。

反論3.その答えに到達する道筋を見つけるのが楽しい

これは、元のツイートをした方が「楽しくない」と言っていることに対して、「いや、私にとっては面白いぞ」と反論しているものです。
何が楽しいか楽しくないかは人によって異なるので、この議論は永久に収束しないものと思われます。

ここまでの私の感想

これ以外にもいろんな反論がされているのですが、2と3の反論はちょっと話がかみ合っていないように感じました。
1についても文系と理系の本質的な差ではないように感じられ、まだちょっと消化不良に思えます。

「再現性」が文系と理系の違いなのか?

元のポストを投稿した方の論文について

実は上記の話で、あえて無視した話があります。理系の研究で特に重視される「再現性」です。

これらの反論は、「誰がやっても答えは同じではない」=「再現性がない」ために学問ではないということが含意されているように思います。
ただ、個人的には「誰がやっても答えは同じではない」=「再現性がない」というわけではないと考えます。

原因を整えて狙いの結果を出す研究(例:二つの原子核をぶつけて新原子をつくり出す)では「人によって異なった答に行きつくこと」は原理的には許されません。もし異なった答に行きついたとすると、それは再現性が得られなかったことを意味しており、なにか実験に失敗したことを意味します。
一方で、結果から原因を求める研究(例:なぜ時間は一方向にしか進まないのかを解明する)では「人によって異なった答に行きつく」可能性はあります。

元のポストを投稿した方は、再現性については以前から意識なさっていたようで、過去から何度かポストなさっています。そして、昨年、所属する大学の紀要で

「文学研究における「再現性」――魯迅は再現可能な存在なのか――」

という論文が発表されました。(何回も一緒のこと書くのですが、こういうのが無料でネットで手に入るとはすごい時代です)

残念ながら私の読解力では十分に読み解けない箇所が多い(文化地理学のあたりとか…)のですが、

  • 文学研究では、「規範」と「実証」という二つの研究スタイルがある

  • 「規範」では、偉大な作家の作品を正しく読むことで、その精神に近づくことが目指される。ここでは、作品を生み出した「原因」は作家の人格に求められていた

  • 「実証」は、作者が活動・執筆していた社会状況(時代背景や地域性)を作品に当てはめて考察する研究手法である。作品を生み出した原因は、その社会状況に求められ、作家の卓越性などは後景に引くこととなる。

  • 1990年代以降、「規範」的な研究から「実証」的な研究が主流となった。この原因の一つとして「科学的」な研究が志向されるようになったことが挙げられる。

  • 「実証」的なスタイルでは、作家をその時代を代表する1サンプルとして扱う。たとえば、漱石を明治の男性を代表させるような研究が挙げられる。しかし、ただ一人(または少数)の作家にその時代を代表させることが本当に妥当なのかは疑問がある。

  • 一方で、「実証」的なスタイルには「同じ時代/地域」を生きた者にはその作品で表現された事柄がおおむね当てはまる=再現性がある=「科学的」であると主張できる、というメリットがある。この場合、作品の特殊性や卓越性よりも、その時代/地域を反映した「平均的」な作品ほど研究価値が高いこととなる。

ということが書かれています。(間違っていたらごめんなさい…)

そして、この方のポストを見るに、本当に「平均的」な作品ほど研究価値が高い状況がよいのかどうかを、ずっと考え続けているようにも感じました。

これを読んで思うこと

元のポストを投稿なさった方は、文学研究において再現性を追い求めた結果、「平均的」な作品ほど研究価値が高くなることに疑問を持たれた結果、再現性に偏重した学問=理系の研究に興味が持てないと発言なさったようにも感じられました。
一方で、結果から原因を求めるタイプの研究では文系だろうが理系だろうが、人によって異なった答に行きつくのは同じなので、実は文系と理系に本質的な違いはないのではないのではないでしょうか。
そして、文学研究では原因を整えて狙いの結果を出すことは不可能であり、これ自体は理系の研究とは異なるのかもしれませんが、これは単なる違いであり両者の対立ポイントでもないように思います。

適当なまとめ図

まとめ

結果として、私自身はあまり文系と理系に本質的な違いを感じていません
(私なりに文系と理系の定義について思うことはあるのですが…)。原因を整えて狙いの結果を出すことが少なくとも文学研究では不可能なのは確かですが、理系の学問でも「再現性」を確認するような実験は不可能な分野もあります(例:例えば宇宙の始まりについての研究)。

どうしても荒れやすい議論なので、定期的にネット上でも盛り上がる内容なのは間違いないのですが…。

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